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宝島からベトナムへ移住した僕が、noteを書こうと思った理由

僕は移住して10年が過ぎて、超僻地離島(宝島)から、東南アジア(ベトナム)に移住した。それも家族連れで。かなりリスクのある賭けだった(現在進行形で)けど、その決意は揺るがなかった。

少し自分のことを。

僕は、大学を卒業後すぐに青年海外協力隊(カンボジア)に参加した。そして、帰国して専門学校へ。ひょんなご縁を頂いて、その専門学校を1ヶ月で休学し、島民100人が住む離島、宝島への移住を決めた。

当時の宝島には、介護施設はなかった。年を重ね、介護が必要になれば島外に「引っ越す」事が当たり前だった。それでも、その土地に暮らし続けたい方たちがいた。足掛け10年かけて、宝島で自分にできることを探し続けた。

少しずつ、小さく始めて、小規模多機能っていうスタイルでの介護事業所の立ち上げを目指した。たくさんのご縁とご協力を頂き事業所が形になった後も、理想を求めて運営してきた。当然、メインの仕事は、介護の仕事。でも、それ以外にもたくさんの想いを込めて暮らしてきた。一枚の写真や言葉から、語れる思い出がたくさんある。それは財産だ。

簡単には語りつくせない、色んな事があって、10年目を迎える年に、僕は宝島を出る覚悟を決めた。それは、前向きな自分であることを、自分自身に言い聞かせていたけど、変えられなかったことに対して「ここ以外のどこかで。」っていう、「逃避」に近い感情もあったのもここには隠さずにおきたい。不安になった時に僕は、「家族に見せたい世界がある!」「僕にはまだまだ可能性がある!」って、自分を鼓舞して、二度目の海外に出た。

なぜ、海外なのか。

「日本でもするべきことはあるだろう」青年海外協力隊に参加を決めたときに、伯父に言われた言葉が胸に刺さったままだ。僕は、海外にこだわったわけでもないけど、「途上国」と呼ばれる国に学ぶべきことも多くあると思っている。グローバルがどうこうというのは置いといても、カンボジアでの体験が僕を動かしてる。外から見た日本。日本人として、人間としての自分。その問いをくれた伯父は亡くなったけど、その答えをカタチにして、伯父へのお土産にするつもりだ。

と、格好良く言っても、現実はそんなに甘くなかった。移住してすぐに、自分の弱さや力不足を痛感した。やる気や想いは空回りし、「役立たずな自分」を受け入れざる得なかった。今までやってきたことを、ある意味リセットした。ポジションもない。役割を与えられない事がこんなに苦しいという事が、想像できていなかった。「年老いて役割を奪われてしまう高齢者もそんな気持ちだったのかな。」勝手に推し量ってた。「人に必要とされること」そのことの重要さを感じた。今、この想いに至った経緯は、これからの僕の人生に大きな影響を与え続けると思う。

当初予定していたのは、家族での移住期間は3ヶ月から1年。僕は、根拠のない自信で、1年は帰ってこないだろうと思っていた。「家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。」いつもそれが心にある。社会的なポジションをなくしても、僕は夫で、父親だ。決断は早い方がいい。移住して1ヶ月くらいで僕たちは、3ヶ月で帰国する決断をした。それからのベトナム生活は楽しいこともたくさんあった。子供たちの根っこはどこにあるのか。それを繰り返し自問自答した結果とも言える。早々に期限のお尻を決めたことは、判断として良かったと思う。

なぜnoteを書き始めたか。

さて、本題。「なぜnoteを書き始めたか。」ネガティブにならざる得ない中でも、僕には夢のようなものが芽生えている。

その国、その土地の暮らしにあったケアの仕組みを作りたい。その土地のコミュニティの1つにしたい。それを目指すベースになりえるかもしれないのが、日本で生まれ、僕も理想を描いた「小規模多機能型居宅介護」じゃないかと信じたくなった。そして、制度が後からついてきてることも、先人に学んできた。

「1人でも多くの人が、最期の瞬間に幸せを感じること。」
「マイノリティな立場でも、充足感に幸せを感じられる社会を作ること。

焼け野原からの経済成長。海外で羨望の眼差しを受けてきた「日本式」「日本製」根っこにあるのは、「生活を良くしたい」だったのではないかと思う。でも、シベリアに抑留された祖父の話を聞くと、そんな言葉が生ぬるいとも感じる。祖父に会うたびに想うことだ

さしせまった命の危険はない今の僕は「家族を幸せにしたい」「目の前の人と笑顔になりたい」ってのが心にある。「時は金なり」以前に「時は命」だ。「生きる」それは、自分の命の使い方だ。これから先の5年後、10年後のために、僕はアジア人としての視野を持てるよう、もう一度、海外に出る。

今の僕の夢

海外に対して、「日本に合った日本式」を押し付けるのではなく、その土地の人と一緒に「その土地にあったもの」を考える。それが、僕らが行くまで介護保険サービスがなかった日本の端っこで、型破りでも何でも、理想を目指して、挑戦と挫折を繰り返して、最終的に一度は介護から距離を置こうと思った僕の今の夢だ。

僕は、「目の前の人を笑顔にする仕事を積み重ねる。」「たくさんの笑顔のある未来を作りたい。」それが、その挑戦の軌跡を遺そう。不格好でも、次の世代の子供たちの生きた教材になりたい。それが、僕がnoteを書こうと決めた理由。どんなカタチで終わったとしても、その軌跡を綴ります。「まだできることあるだろ?」これまでのことを振り返りながら。

見守っていただけると幸いです。

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