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高齢の夫婦が守ろうとしてきたことに向き合っていた話

宝島は、神様仏様を、とても大切にしてきた島だ。僕が移住当初は、旧暦での暦で行われるまつりごとも残っていた。旧暦の1日と15日は墓参りにいく。年に数日は、畑仕事や漁に出てはいけない日がある。神がかったエピソードも多く、カレンダーにのらない行事は、年長者に聞いて行動するようにしていた。

岩義さんとスミ子さんのご自宅

岩義さんとスミ子さんの家では、神様仏様をとても大事にされて来た。自宅は古くなり、高齢者には厳しい住環境とも思えた。生活の場は、母屋と離れの渡り廊下にするために作った場所だ。上に家には神様、仏様が居て、下の家は古くなり住めない。そんな中で、そこでの暮らしが始まっていた。夏は暑く、冬は寒い状況だった。岩義さんもスミ子さんも「自分でできる」と話される。

お二人が生き抜いてきた時代は、今よりもはるかに過酷だっただろう。厳しい環境にあった宝島を生き抜いてこられた方たちだからだろうか、とても我慢強いという印象だった。

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そんな状況を見かねて、家族や地域の方に相談したことがあった。そして、岩義さんの相棒⁈の隆志さんに改修してもらった。しかし、その部屋を日常生活では使われることはなかった。その部屋で寝たりすることがないのには、神様仏様がいるからという理由があった。

何を大切に生きるか

そんな想いを知っているから、僕らは二人の想いを大事に、健康に過ごしていただけるように関わって来た。元々はコンクリートの打ちっぱなしだったが、床が張られ、夏には天井を作った。本人たちの負担感にならないように少しづつ。ただ、お二人の年齢的な体力にも厳しい状況もあり、急いだ部分もある。遠方に住む家族も大工仕事に駆けつけれた。「神様仏様より、身体の方が大事だよ。」たまに、そんな声をかけられても、お二人は頑なだった。それが二人の暮らし、そして誇りだったようにも思う。

この夫妻は、ずっと宝島で畜産や農業を続けて来られた。岩義さんの運転する耕運機の後ろに、スミ子さんがチョコンと座る。岩義さんが体を壊されてから、二人で畑に行くことが殆どなくなっていたその頃でも、その様子は想像できた。「岩爺の運転は、恐ろしかった。」周りの人が話していたけど、それも何と無く納得できる。今以上に、強く勝ち気な人だったのだろうと思う。

お二人の畑での時間

度々、岩義さん、スミ子さんと一緒に畑に行くことを心がけた。非番のスタッフも参加して、安全に手入れを続けることができた。毎回、岩義さんも「できた」という達成感や「畑を見せられて良かった」という満足感が感じられた。スミ子さんは自分の仕事が遅くなるのが嫌で、たまには岩義さんを煙たそうにされた。「んだ、バカ!」「こら!ジイ!」お互い、大きな声も出るけど、きっとこれは、これまでも何度も繰り返されてきたことなんだろうと思っていた。

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岩義さんの役割

そんな岩義さんが、この年の宝島の冬の祭りで、親衆と呼ばれる、まつりごとの大事な役割を担う。普段、正座をされることはないが、この時は本人の強い意志で正座でのぞまれる。立ち上がれなくなり、少し慌てるが、地域の方も協力してくれて、無事に役割を全うされる。

車椅子美江子さんも参加できるように、と色々な助言を頂いていた。宝島でのまつりごとに参加された美江子さんは、すぐに小宝島の家族に電話をされた。「いろんな人に会えてよかった」小宝島でも、神事を大事にされている。それを守って来たのが美江子さんの世代だ。その世代の方たちの神仏への想いは計り知れない。

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