【旧稿再掲】「国際日本学」における仮説と実証の関係

去る2011年4月27日(水)、法政大学大学院国際日本学インスティテュート専攻委員会のウェブサイト「国際日本学へのいざない」に私の随筆「一週一話」の第9回「「国際日本学」における仮説と実証の関係」が掲載されました。

現在「国際日本学へのいざない」は閲覧できないものの、学問において仮説を立て、実際に証明するためには何が必要かという問題の重要さは、今も変わりません。

そこで、以下に「「国際日本学」における仮説と実証の関係」をご紹介します。

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「国際日本学」における仮説と実証の関係
鈴村裕輔

「常識的に考えれば突飛だと思う仮説であっても、自分が正しいと思うのならその仮説を唱えることをためらってはいけません。重要なのは、仮説が常識的に判断して正しいか、整合的か、ということではなく、自分で立てた仮説を実証できるかどうか、ということです。日本では無難な仮説、常識的から大きく逸脱していないような仮説を立てることが学問的だと思われがちですが、欧米の学者の多くはその反対で、突拍子もないような仮説であっても、それを実証することが出来るのなら大いに結構、という態度です。アメリカの学者などは、いい加減な仮説を立てていることが思いのほか多いけれども、周囲はそれをとがめるのではなく、「面白いじゃないか、やってみなよ」と見ています」

これは、私が大学1年生のときに法政大学教養部教授であった風間喜代三先生が、教養科目の言語学の講義の際に口にした言葉です。

比較文法の分野で一家をなした風間先生が研究の過程で体得したことのひとつが、「仮説は突飛でも、実証することが出来れば問題ない」という観点なのでしょう。

この言葉を聞いたときの私の心境は、まさに開眼という表現が最もふさわしく、以来、折に触れて「問題は仮説の内容ではない、実証できるかいなかだ」と思い浮かべています。

どのような分野であれ、研究を行うためには仮説を立て、その仮説の妥当性を実証するという行為は不可欠となります。

しかし、とりわけ確立された分野においては、立て得る仮説の内容にも学問や学派の伝統という目に見える制約が作用し、仮説も推論を働かせれば比較的容易に実証することが出来るようなものになりがちです。

一方、「国際日本学」のようにいまだ確立されず、様々な要素が内包されうる分野にあっては、依拠すべき「国際日本学的手法」が存在しないのですから、仮説を立てる作業そのものがひとつの冒険となります。

このとき、風間先生が口にされた「突拍子もないような仮説であっても、それを実証することが出来るのなら大いに結構」という態度は、大変に心強いものです。

挑戦と冒険が求められる研究分野に求められるのは、無難な仮説ではなく、突拍子もない仮説と、それを実証する探求心である、と言えるでしょう。
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<Executive Summary>
A Relationship between Hypothesis and Demonstration in International Japanese Studies (Yusuke Suzumura)

I contributed an essay entitled with "A Relationship between Hypothesis and Demonstration in International Japanese Studies" on Introduction to International Japanese Studies on 27th April 2011. In this time, I present an essay to readers of this weblog.

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