石橋湛山をよりよく理解するために不可欠な視点は何か

石橋湛山を取り上げる論者は、言論人としての活動に着目する際にしばしばその議論の「先見性」を強調します。

例えば、第一次世界大戦後に植民地を放棄することを提唱したいわゆる「小日本主義」や、濱口雄幸内閣での金解禁問題で新平価の採用を主張したこと、あるいは大東亜共栄圏のような広域経済圏の維持が不可能であることを指摘するといった点を考えれば、論者が石橋の「先見の明」に共感を覚えるのも無理からぬところです。

しかし、実際には石橋の主張が現実の政策に反映されることがなかったのも、われわれの知るところです。

すなわち、「小日本主義」ではなく領土拡張主義、新平価ではなく旧平価での金解禁、大東亜共栄圏の拡大などは、石橋の議論が実際の政治の前では無力であったことを示します。

そして、石橋が素志を実際の政策に活かすことが出来るのは、1946年に第一次吉田茂内閣の大蔵大臣に就任し、ケインズ経済学に基づいて完全就業の実現による日本経済の復興を企図し、いわゆる「積極財政」と称される財政政策を推進するときであることも、周知の通りです。

それでは、何故今日の視点から見れば「先見性」のあった石橋の議論が当時の為政者や国民の支持を得なかったといえば、一面においては石橋が主として議論を行ったのが『東洋経済新報』という経済専門誌であり、国民各層が容易に手する類の媒体ではなかったこと、他面においては同誌の主たる購読者である財界や産業界の指導者たちが軍部を「非常に強い」と考え、その対支強硬論、英米排斥論を支持したからでした[1]。

もちろん、石橋の議論が時代の風潮に逆らう、進歩的、革新的なものであったことは疑いえません。

それでも、こうした点のみに注意を奪われることは石橋をあたかも預言者や占星術師と同一視するかのごとき態度であって、議論がどれほど正しいものであっても石橋の所説が受け入れられなかったという事実を見逃すことになりかねないものです。

従って、石橋の提起した問題意識や議論の内容を適切に理解するためには、石橋の議論が同時代の人々の注意を惹きつけられなかったという事実を絶えず参照しなければなりません。

好ましい点のみに注目し、至らざる点を等閑視することは、より立体的で奥行のある石橋湛山の事績の理解には繋がらないということを改めて銘記したいものです。

[1]石橋湛山, 湛山座談. 岩波書店, 1994年, 40頁.

<Executive Summary>
How Can We Understand an Actual Figure of Ishibashi Tanzan? (Yusuke Suzumura)

It is often said that Ishibashi Tanzan, a Former Prime Minister of Japan, is a person with foreseeability. However, we have to pay our attention that his arguments during the Mid-War and the Pacific War Period was ignored by the people of that time.

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