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noteはじめました。自己紹介①


バックパッカーの時の話は個人ブログの方にまとめているのですが、
また違うジャンルの記事発信をする場として、冷やし中華ばりにnoteをはじめました。

最初の投稿になるので、今回は自己紹介をしたいと思います。
(美山のことはもう知ってるから特に大丈夫!という方は、あなたにとってより重要なこと、例えば「Nizi Project」をまだ観終えていないのであれば、その続きを観るなどに時間を使って下さい。)

このブログを読むときは、部屋を明るくして、画面から離れて見て下さい。


大枠の自己紹介

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南米・ボリビアにて


平成元年生まれ、現在30歳です。
周りからは、だいたい「ゆうすけ」と呼ばれます。

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■出身
北海道の帯広という、アナウンサーの安住紳一郎さんやドリカムの吉田美和さんと同じ街の出身です。
最高の両親・弟と、圧倒的な大自然に囲まれ、ビビるぐらいすこやかに育ちました。
ジンギスカンの美味しさを伝えるために、高校卒業と同時に東京に来ました。

■所属
都内の人材会社にて、Web業界における中途採用支援・転職支援をしています。パーティーを中心とした生活をしていると思われがちですが、仕事はめちゃくちゃ真面目にしてます。
オフィスの場所が神保町なので、ランチはカレーにまみれることが多いです。

■趣味・興味のあるもの
・キャンプ(ガチキャンパーではないですが、カジュアルによく行きます。サウナも好きです。)
・BBQ(BBQはお肉を介して人と人を繋ぐ、最高の行事です。)
・ボードゲーム(最近は「カタン」という、ドイツのボードゲームにハマってます。時を忘れるほどに面白いです)
・動画編集(会社の忘年会や友人との旅行の際、圧倒的にB級の動画を作ります。)

大学卒業後に2年ほどかけて世界一周の一人旅をしてたのですが、
その時のブログがまだ全然帰国できていないことで有名です。
佑介美山のすべらない世界一周

→評判を聞くとまぁまぁ面白いらしいので、今度時間のあるときに読んでみて下さい。
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大枠の自己紹介は以上です。

以前友達が書いていて面白かったので、ここからは無駄に幼少期から人生を振り返ってみたいと思います。
いや、幼少期からは別にええわ…という人は、これ以上先には進まず、「愛の不時着」や「梨泰院クラス」を見返すなどして下さい。


小学生時代

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「若葉小学校」という、伸びしろの化身のような名前の小学校に通っていた、めっちゃ普通の小学生でした。
放課後は幼馴染である4人のマイメンと、スマブラや草野球などに興じていて、小さい頃から友達に恵まれたなぁと環境に感謝しています。

ただ、この頃にみた「学校の怪談」のせいで、今でもかなりお化けが嫌いです。ホラー映画を観ると、お風呂に入れなくなるなど日常生活にかなり支障が出ます。


小学生時代の思い出は、オリジナルのカードゲームを作ったことです。
当時「ポケモンカード」と「遊戯王カード」がむっちゃ流行ってたんですけど、何も書かれてないカードサイズの紙(なんか家に大量にあった)を使い、キャラクターや攻撃力も全て自分で書いて良いという夢のような設定の「MIYAMAカード」を発案・制作しました。

これが周りの小学生のクリエイティビティを刺激する形となり、当時在籍していた6年2組を中心にまぁまぁ流行りました。
休み時間はキックベースをするか、ポケモンカードをするか、MIYAMAカードで遊ぶかのいずれかという状態まで市民権を獲得し、遂に隣のクラスまで流行が及ぶか及ばないかぐらいのときに
何故か校長先生にバレて、わざわざ全校集会でその遊びは禁止にしますと伝えられました。

遊戯王で言うペガサス状態だったので、独裁政権を止めるために誰かが先生にチクったんだと思います。
「出る杭は打たれる」ということを子どもながらに痛感した、小学生時代でした。


中学生時代

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若葉小学校は非常に平和な学校だったのですが、僕の入った第八中学校(略して八中)は少しヤンキーが多めの学校でした。なので、僕もモテるためにヤンキーに加わろうと

いうことは全くなく、いかにトラブルを避けてピースフルに過ごすかに終始する3年間になります。


当時の不良の勢力図としては、八中か、隣りにある西陵中学校が一番強いみたいな感じになってました。八中が鈴蘭高校だとすると、西陵中は鳳仙学園のような存在でした。知らんけど。
不良の人たちは1時間目には絶対に授業に来ないし、休み時間も廊下で色んなヤンチャ(ウフフ)をしてて、今思い返すとまぁまぁ荒れてたんだなと思います。

一度、3年生のとき西陵中学校の不良の奴らがグラウンドまで乗り込んできたことがあります。チャリで。

近所の牧場からなぜか馬が解き放たれて、その馬が単独で乗り込んできたことはあったのですが、ヤンキーが集団で乗り込んできたのは初の珍事でした。

しかも運が悪いことに僕のクラスにヤンキーの頂点(頭?)がいたので、西陵の奴らが名指しでそいつを呼ぶわけです。「オイ○○!!出てこいや!!」いや高田延彦か!!
僕はそのとき社会の年号を頑張って覚えてたのに、その暴動のお陰で全て忘れました。

授業は中断され、一瞬、リトルな抗争みたいな雰囲気になったんですけど、八中の体育の先生たちが強靭だったこともあり、西陵中の不良たちは退散していきました。

僕は南遼平などの一般生徒と基本的にはつるみつつ、一方で不良のみんなともある程度の関係性は保つ、永世中立国のスイスのようなポジションを確立し、平和に中学生活を終えました。


ヤンキーがたまたま多い代でしたが普通の中学校だったので、一方で僕はテニス部の部長として、非常に真面目に部を率いていました。
当時はテニプリが流行っていたので、越前リョーマに憧れる奴がむっちゃ入部してくるんですね。1学年20〜30人ずつぐらいは部員がいて、校内のランキング戦で上位に入らないと大会に出れないという、強豪校のような状況でした。

(ただ、みんなツイストサーブが打てると思って入部してくるんですけど、全然打てないということに気付いて一定数辞めていきます。)



思いのほか長くなってしまったので、高校時代からの続きは次回のnoteに書きます。
ここまでスクロールしてくれたということは、「Nizi Project」より、僕のnoteの方がプライオリティが高かったということですね。分かります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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