一分で読む現代短歌④ 郡司和斗+それと口語の韻律の話

まあ親子で死んで良かったねと煎餅齧りながらニュースに母は(郡司和斗「ニュースに母は」/『かりん』2019年9月号)

第39回かりん賞受賞作冒頭の作品である。現役の大学生である作者は、母とニュースを見ながら他愛もない話に興じている。(僕は作者をよく知っているので、想像するに)帰省して母とくだらない世間話をして、穏やかに過ごせる毎日を喜んでいるのだろう。それはある意味では理想の親子関係であるようにも見える。思春期を乗り越え、精神的に大人になりつつある作者が、普段は離れて暮らす母とかけがえのない時間を共有する。「まあ親子で死んでよかったね」という母の言葉には、その裏返しにある厳しい現実と、それに加担しない平和な日常の距離感があらわれている。若い作者は<親子で死ぬ>ような惨劇が当たり前にあるような、この世界の生きづらさを生で感じている身だ。<ああ、お母さんがまたのんきなことを言ってるよ>と思いながら、母と自分の見ている世界のギャップを引き受けていく。その姿はむろん、息子が母に見せる精いっぱいの成長した姿でもある。

このように、読み解くにはさほど苦労しない作品だが、話し言葉を駆使した韻律に対する疑問は残っている。「まあ親子で/死んで良かった/ねと煎餅/齧りながら/ニュースに母は」と読めばそれなりに定型であり、勇み足な初句六音と不安定な四句六音の組み合わせに生じる独特の違和感が作者の生きている世界への違和感と呼応する。この四句六音は使いこなすのが難しい印象だが、そのような不安定な韻律にあまり抵抗のない世代の作品と考えればさほど不思議ではない。一方、母の語った言葉である上句の現実感を生かすならば、「まあ親子で死んでよかったねと/煎餅齧りながら/ニュースに母は」というように、結句だけを定型としてあとは勢いで読ませてしまうことも考えられる。話し言葉が定型を侵食したことで、あたかも舞台の一場面のような臨場感とスピード感が生まれているのである。どちらの意図が作者にあったとしても、この歌においてはそれがある程度成功しているように思う。

一方で、このようなゆるい韻律の作品に対して、どう読んだらいいかわからないという困惑する読者もいるだろう。とりあげた郡司の歌とは直接関係はないが、今年(2019年度)の角川短歌賞の座談会でも、選考委員の四氏からこうした口語の韻律感のある作品に懸念の声が上がっている。

伊藤一彦氏:「…五七五七七をどう捉えるかですね。字余り、字足らず、はなはだしい句跨りによって、文体の緊張感が失われたものが多かった」
永田和宏氏:「…口語が口語としてあまりにも入りすぎてることに危機感を持ちました。(中略)全部が口語調になってしまうと歌をやっている意味が本当にあるのかなという気がします」
東直子氏:「…すでに口語短歌は成熟してきていて、どういう新しさがあるのかは足踏み状態かなと思いながら読んだ」
小池光氏:「…句跨りで処理する歌がすごく多い。短歌が三十一文字だというのは素直に受け入れるけど、五句、フレーズが五個集まって三十一音になっていることには甘い考えがある」

前後の文脈は省いているが、読みながらずいぶんと手厳しい言い方だと思った。こうした指摘は口語で、いや、もっと実際の話し言葉に近いような生の感覚で勝負する歌人が必ず直面する問題を示している。すぐに答えを出せとは言わないが、いずれ納得のいく答えを用意しなければならないだろうと思う。

そして、こうした韻律感に関する考え方の違いが、ネット/結社の二分法や、権威/非権威の争い、あるいは単なる世代間の断絶といった方向性に簡単に回収されてはならないとも思っている。どちらの側に立つとかではなく、韻律という面に着目したときに口語の歌、文語の歌、そしてその伝統的な二分を越えていくように現れた話し言葉の歌と、それぞれにそれぞれの形で現れる詩情を、突き放すことなく丁寧に受け取っていくことが必要だろう。


※文中の引用はすべて、角川『短歌』(2019年11月号)に拠っています。

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