「かりん」2020年特集号を読む④上條素山、谷川保子

昨日は夜遅くまで、かりんの郡司和斗さん、のつちえこさん、大井学さんと5月号特集を読むツイキャスをやりました。しどろもどろになりながらも、なんとか話について行って、途中「読みがシビア」などと言われたりしながら(厳しかったかな、僕)、やっぱり短歌の話をするのは楽しいなあと実感しました。将棋でいえばとことんまで感想戦をするような、そんな文化がかりんの中には根付いているのかもしれません。

昨日話したことと重なる部分はありますが、今日は上條素山さんと、谷川保子さんの作品を簡単に読んでいきたいと思います。

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すこしおでこ出てゐるわたしの眉毛から出で来るちから祈りと踊り

ピカチュウは眉のないまま襖からああしまつたとつぶやきました

上條素山「祈りと踊り」


上條素山さんは、つかみどころのない作者です。「かりん」を毎月読んでみるとわかるのですが、ひとつの題材をとことんまで突き詰めながら、その細かすぎる部分に世界の深淵を見るような作品を多く発表しています。そんな上條さんは現在、総合誌や新人賞、そして結社誌と、「眉」をテーマにした一連の作品群を展開しています。おそらくこの「眉」というモチーフは、試行錯誤の末に上條さんがたどり着いた「何か」なのでしょう。自然状態では自分の「眉」を見ることはできません。鏡やそれに準ずる媒体を通じてそれは顕在化します。一方、他人の「眉」は上條さんにとっては世界を語る切り口になりえます。このような「眉」との対話を通じて、やがて「眉」そのものが人格を帯びているような異様な世界が演出されます。

狂ったようにひとつのモチーフを描き続けるといえば、モネの睡蓮やゴッホのひまわりなどが思い浮かぶでしょうか。引用歌の二首目、「ピカチュウ」も上條作品には頻出のモチーフですが、ここでは「眉」を持たないピカチュウに対しての文学上の決別のようにも思えます。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかわかりません。けれどおそらく上條さんはどこまでも本気なのです。「眉」との対話というテーマは今後も展開されていくことでしょう。


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朽ち果ててフェンスにたおれかけている公民館のトーテムポール

迷子センター子どもは黄のクーピーをにぎりしめつつ稲妻描く

谷川保子「日時計になる」


谷川保子さんは、誰かの痛みを自分の痛みであるかのように受け入れてしまう、そんな苦しいやさしさを持った歌人です。見えるものすべてが何かの痛みを伴っている社会の中で、その目線は自分にとっても暗く重たいものになるでしょう。小学生や中学生のころ、誰かが怒られていたりけんかしていたりするのを見るのがすごく苦手で、そういう場面になると目を伏せて、教室から逃げ出してしまうような子がいました。谷川さんはそんな誰かの痛みに敏感な心を持ったまま、歌人として、それを見つめて描き出すことを選んでいるのだと思います。自分に近い子ども、家族、自然の景物から、遠い難民の子ども、あるいは記憶の中の誰かにまで。祈りにも似た谷川さんの短歌は、読む人に対してあなたはそれを自分事として受けいれられますか、という問いを常に投げかけています。

朽ちているトーテムポールは遠く先住民の背負ってきた悲しみと、それに並列するような現代の荒涼を、稲妻を描く迷子の子どもはもっと近いところにある救いを求める声を、それぞれ読者に届けてくれます。一方で、谷川さんはときに、そうした「声」をあまりにも生々しく届けてしまうことがあるのです。そうなったとき、読者は反射的にそれらを拒否する姿勢をとってしまうでしょう。対象に近づきすぎると読者は離れてしまい、遠くなると迎えて読まれてしまう。対象との距離はこうした<ジレンマ>の関係にあり、誰かの痛みによりそう歌人が克服するべき課題として残されているのです。

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次回へ続きます。

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