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あえて21世紀の現在、国体について考えてみた―「近代国家と国体」研究のためのノート―

                   住友陽文(大阪府立大学教員)
                       (2020年4月6日掲載)

 森元総理の「失言」―
 いま森喜朗氏というと、とくに若い人は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長、つまり五輪推進の関係者というイメージが強く、彼がかつて日本の総理大臣であったことを覚えている人は少ないかもしれない。森氏は2000年から2001年にかけて1年間だけ自民党の総裁として総理を務めている。その間に森氏自身はある「失言」をしている。
 総理になって約1か月後の2000年5月15日に神道政治連盟国会議員懇談会で森総理はあいさつのなかで、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ」と発言したのである。主権在民の憲法下で、日本は「天皇を中心」とする国であると言い、天皇が神格化されていた戦前を否定した戦後において、日本を「神の国」であると述べたのである。当然、これには野党やマスコミなどが一斉に批判をした。そのあとの国会で森総理は、自分にとっての天皇とは、日本国憲法でいうところの「日本国および日本国民の総意に基づくもの」であり、「日本国民統合の象徴」であるという存在であり、そのような意味で日本は「天皇を中心」とした国だと、自身の発言の意図について弁明した。また、日本は人間を超える自然のなかに神の存在を見る国であると説明し、「神の国」というのは、特定の宗教について述べたものではないと釈明した。
 さらに2000年6月3日にも森総理は、自民党奈良県連緊急総会のあいさつのなかで、総選挙の結果によって日本共産党が政権入りした場合は「日本の国体をどう守るのか」という深刻な問題があると発言した。もちろん、この森総理の発言も批判を受けた。
 以上のように、戦後の日本において、「国体」という言葉を公の場で政治家が口にしたり、それを示唆するだけで、大問題になったのである。それは天皇を神格化させ、その神格化された天皇を中心に国が形成されていた時代の国のカタチを彷彿とさせることもあり、主権在民下の日本ではタブーとなっていたのである。

国体とは―
 周知のように戦前では国体は何よりも崇高で至高なものであり、天皇といえどもそれによって拘束を受けるものであった。もちろん国民にとってはなおさらであり、1925年には悪名高き治安維持法によって「国体を変革」することが厳しく禁じられた。ただし、国体という言葉やその内容は多義的で必ずしも明示的なものではなかった。内容は空疎でさえあった。国体という言葉によって、ほぼすべての日本人がその自由を奪われたにもかかわらず、その実体は明らかなものではなかった。
 日本の国体とは、建国神話に由来する日本独特の君民関係を基礎にした国の道徳秩序やその体制のことであった。とくに、幕末の対外的危機感が国体を再認識させ、祭政一致による億兆一心を説いて、身分を超えた国家の統一性を主張する議論が明治国家の公式のイデオロギーとなり、以降、国体があらゆるものを優越する国家の基本原理となった(国体論については拙稿「国体論」〈『社会思想史事典』(丸善出版 2019年)〉参照)。
 国体について、より意味があったのは国体そのものではなく、国体についてあれこれ論議すること、これであった。すなわち国体論である。国体を論じることで、論じている者でさえ、それに拘束される。そういうものこそが、国体論であった。

 戦前の日本人は国体に縛られ、戦後は「国体=タブー」というのに縛られる。では、本当に戦後は国体とは無関係なのだろうか。

歴史と国体―
 歴史を研究するとは、過去に対する現在の特権を剝奪していくことにほかならない。
 例えば規範上の、あるいは法学上の「正しさ」というのは、時代を経るうちに更新されていくものだ。過去の「正しさ」は現在の「正しさ」を意味しないということは、われわれ人類がこれまで経験してきたことだ。
 しかし、歴史研究というのは、こうやって蓄積された「正しさ」の更新の層の重なり具合や更新前の層の実相を見ようとするもので、そのために新しい「正しさ」から来る、物事を規範的に認識しようとする視座をいったん脇に置くか、解除するものでもある。

 先述のとおり、明治維新から敗戦までのあいだ、「国体に悖(もと)る」という文句は、日本国民としては自分自身の存在を揺るがす致命的な批判言説であった。国体は、国家を建国神話や皇統の歴史を根拠にして正当化する国民的規範体系であった。これに対していくぶんでも疑問を持つことは許されなかった。
 敗戦後は、逆にそういった国体論は封印され、この国の語りから抹消された、はずであった。

 だが単なる「語り」の問題ではなく、歴史的なつながりのなかで見るとどうだろうか。
 大日本帝国憲法(1889年制定)の第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、天皇に統治権があることが明確である。それが、日本国憲法(1946年制定)の第1条になると、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となっている。天皇が統治権者でも主権者でもなく象徴になっている。何の象徴か。日本国と日本国民統合の象徴である。天皇は国の象徴であり、国民が一つにまとまっているさまの象徴だというわけである。「主権の存する」ところは「日本国民」であると明記され、天皇の地位はその「日本国民の総意に基づく」とされて、あたかも天皇は国民の総意に反して自らのあり方を自由に決められない存在であるかのようである。
 大日本帝国憲法から日本国憲法への「改正」によって、主権(帝国憲法ではこの言葉は使われていないが)の所在が天皇から国民に変わったのは明らかであり、だから戦後の多くの知識人は「国体は変革」されたと断定した。確かに法的・制度的にはそうだろう。

象徴天皇とは―
 では、この象徴天皇とは何か。またその地位が国民の総意にもとづいているとはどういうことなのだろうか。
 敗戦後最初の国会(まだ帝国議会であった)で帝国憲法改正案が審議されるなか、国務大臣の金森徳次郎は改正憲法案第1条について、これは「日本ノ国体ニ即シ」たものであり、この国体を「基盤トシツツ天皇ノ御地位ヲ明カニ致シマシタ規定デアル」と説明している。なんと、日本国憲法第1条は、国体を基盤とする条文であるというわけである。
 さらにこの第1条に象徴天皇が規定されたことは、主権者である国民にとって「天皇トノ心ノ繋ガリノ関係ガアル」からであり、そのことはわが国の「長キ歴史ヲ通ジテ明カ」にされているではないかと説明しているのである。国民が統合されているように見えるのは天皇を中心とする国民の心のつながりがあるからであり、そのことは長い歴史が証明しているというわけである。金森大臣は、天皇と国民とは「心ノ繋ガリ」があるのだという国体論が歴史的に展開されてきたことの帰結として、新憲法の第1条が制定されたことの要因を見ているのである。このことから金森大臣は、そのように国体論で論じられてきた天皇の「地位」こそ、「日本国民ノ至高ノ総意ニ基ク」ものであると言うのである。つまり天皇の地位が、なぜ主権者である国民の総意にもとづくのかといえば、それは天皇と国民との間の「心ノ繋ガリ」が歴史的に存在し、そのことが国民の総意となって集約されているからであったというわけだ。つまり、天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」のは、それが戦前日本の歴史ゆえなのであった(以上は、1946年6月26日の帝国議会衆議院本会議と、同年7月6日の帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会の議事録による)。
 金森大臣はここで注意深く、天皇の地位を与えたのは「日本国民ノ至高ノ総意」であると述べている。天皇と心でつながる国民のあり方は、同時に国体であり、それゆえその国民の「総意」は「至高」のものであったのである。「至高」とはsovereigntyであり、つまりは主権のことであるが、歴史を通じて形成されてきた、この国体とも同義である「国民の総意」こそ主権の淵源なのであった。
 主権者である国民の総意にもとづくのが天皇の地位なのだから、天皇はこの主権者の意思を無視して自由ではいられないという意味で一般的には解釈されている日本国憲法第1条は、実のところ戦前日本で天皇と国民との「心ノ繋ガリ」が語られてきたという歴史を物語るものでもあった。そして、そういった君民一体の姿こそ国体であったという点で、金森大臣が言うように日本国憲法第1条は国体に依存していたのである。
 ここで述べた以上のことについては、小路田泰直・田中希生編『私の天皇論』(東京堂出版 2020年)の第11章の拙稿「臣民たちの天皇制―教育勅語から「生前退位」談話へ」で詳しく論じたので、そちらを参照されたい。

日本国憲法と国体―
 日本国憲法は、こういった解釈が堂々と国会で展開されるほど、その条文に隠された意味や原理は、それまでの歴史に当然ながら依存していたのである。戦前において、こういった国体について力強く語られ論じられてきた歴史は否定しようもなく、そのことが新憲法に大きな力を注いだのである。
 では、その力とはどのようなものか。
 私は、2011年に著した『皇国日本のデモクラシー―個人創造の思想史』(有志舎)でその「力」について、不十分ながら検討し論じてみた。ここでその内容を詳しく紹介する余裕はないが、いま日本で起きている問題と関わる部分があるので、その点に関連させて述べてみたいと思う。
 それは、世界中で深刻な広がりを見せている新型コロナウイルスに対する日本の独特の対応についてである。各国が巨額の財政を支出して検疫や医療体制の整備、さらには休業補償を行なっているのに、日本の政府は、非常に安上がりな対策しか見せていないのである。そういう意味で、各国が行なっているソーシャル・ディスタンシング(人混みを避け、他人と距離を取る戦略)という疫学的措置が不十分なものとなっている。
 しかも、政府はこういった個人的な負担をかけさせるのに、明確な法令にもとづく命令ではなく、「自粛」を要請するという手段に出ている。「自粛」とは「自分で自分の行いをつつしむこと」であり、「要請」とは「強く請いもとめること」である(『広辞苑 第七版』)。つまり「政府が自粛を市民に要請した」とは、政府が市民に向かって市民自身の行ないを市民自身の意思により慎むよう強く請うたということである。少し言い換えてみると、こうだ。関西などで少しコワモテの男が、若干笑みを浮かべながら、「にいちゃん、そこ、通したってんか?」というようなものだ。言葉としては道を空ける側の温情でということだが、本質的にはかなりの強制が働く。なぜなら、言うことを聞かなければ、多分痛い目にあうからだ。「政府が自粛を市民に要請した」というのはこれと同じようなニュアンスを持つ。

 命令に従わなければならないというのは(非合法な脅迫以外は)、国家権力と市民という法的・制度的根拠がある支配関係のなかで成立することである。政府はそういういわば公法的関係のなかで事を済まそうとしないで、受けとめ側の情に訴えて要求を通そうとしていることになる。情の関係というのは、例えば義理や人情や恩義や誠実や信仰などのような道徳的関係のことだ。つまり、法的・制度的関係をはずれた私人同士の関係で見られるものだ。それは例えば、カネの貸し借りが生じた時、借りた人間は期限までに誠実にカネを返そうとする態度が要求される。借金しているのに博打ばかりをしていては、けしからんわけだ。しかしこれは必ずしも法で縛られるものではない。私人同士契約を結んだ者としての道義的な責務のようなものだ。信義誠実の原則というのがそれである。これは私法的関係で重視される原理だが、それ自体は法外の原理なのである。いわば命令関係ではなく、こういった道徳的関係という法外の原理を通じて、政府は市民に対して自らの要求を通そうとしているのである。
 先の問題にもどると、政府はカネをかけないから命令は出せないが、市民に行動の「自粛」を要請するということで、つまり政府と市民は本来は支配関係(公法的関係)にあるにもかかわらず、私法的関係で見られる法外の原理によることで、政府は自らの要求を通そうとしているのである。
 こういうように、国家権力が自らの要求を法的・制度的裏づけなしに市民に向かって押し通すことができるのはなぜか。それを私は前著において、市民個人の内面において、他者からの強制を「自己決定」と受けとめることのできる、ある種の「能力」に求めたのである。すなわちそれは、「私」のなかに「公」を取り込み、その取り込んだ「公」すら「私」を構成するものと位置づけ、それら総体を「個人」と位置づける能力である。そこでは、国家やあるいは社会すら個人にとって外部的な存在ではなく、それもまた個人を構成する内部的要素であると理解される。

個人を創造する―
 そういった個人が創造されてくるのが、近代日本の歴史過程だというのが前著でのいちおうの結論であった。だとすると、疫学上必要な行動を市民にとらせるために、公衆衛生という公共の利益のためなら個人は自らの私権を内発的に抑制するように「訓練」されていると考えても、それほどおかしいものではない。つまり、〈個人の損失補塡+私権制限命令〉が取れないのは、日本においては近代を経てきた結果だということになる。
 例えば私権絶対主義の立場に立つならば、私権が公共の利益のために国家によって損益をこうむった時は私権の侵害として位置づけ、そこに損失補償という措置を必須と捉えるという考えが生まれる。が、一方、私権相対主義の立場では、私権は社会あってのもので、私権にあらかじめ公共の利益との調整弁が内在化していると考えると、私権の追求によって得た利益が社会公共のために損益を受けたとしても、それを償うという考えにはつながりにくい。
 戦後民法の第1条には「私権は、公共の福祉に適合しなければならない」とある。こういった私権制約の条文は明治民法にもなかったものだ。さらに第1条は続けて2項と3項がある。

  2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければなら
    ない。
  3 権利の濫用は、これを許さない。

 2項は、先ほど触れた信義誠実の原則の重要性に触れた条文であり、3項は、権利濫用は許されないとの条文である。これらも戦後に初登場したものである。こういった権利の社会化は戦前の歴史を通して戦後民法に継承されたものである。いずれも民法上の考えとして20世紀以降の日本の社会に登場し、社会問題の惹起や社会運動の展開のなかで認知され成熟してきたものである。その考えが日本国憲法にもおよんでいる(「公共の福祉」による人権制約)。
 こういう現象を「民法の憲法化」もしくは「憲法の民法化」と言うが、これが明治憲法体制下で進行した法律の進化であった。

 この「民法の憲法化」「憲法の民法化」を進行させるのに一役買ったのが、実は国体論であったのではないだろうか。
 私権と社会公共との間に対立はなく矛盾が生じないのは「わが国の国体の特有なのだ」というのが戦前の一つの言説であった。例えば、戦前の警察官僚であった松井茂は、所有権という個人主義的な観念すら、みだりに個人のためにのみ資するものではなく、公益上の観点に立脚するものであるが、こういう「信念は我国の国体上からは、余りに明瞭な事柄」のものであると力説している。また、民法上の損害賠償の考え方にしても「社会聯帯の思想」にしたがって、権利濫用の抑制のために無過失損害賠償責任論(要するに労災につながるような責任論)を認めるようになってきたと語っている。松井は、このような考え方が生まれてくると、労使関係に積極的に警察が介入していくことも必要だと述べている。警察の行為は刑事=公法領域にのみに関わるのではなく、労使関係という私法領域にも怖じけず足を踏み入れるべきと主張し、公法と私法の領域があいまいになっていく事態を強く意識している。こういった警察の新たな性質の変化のことを、松井は「警察の社会化」と呼んでいる(松井茂『警察読本』〈日本評論社 1933年〉)。
 権利や権力の社会化こそが、20世紀以降の事象であった。それは、法や制度が必ずしも社会の関係を媒介とするのではなく、法外の原理たる道徳や情誼がそういった関係の緩衝地帯の機能を果たすようになってきたことを意味している。その緩衝地帯の存在意義を国体論が担保しているという関係になっているのだ。

国体論の機能―
 以上のように、国家権力と市民個人との間の権力的関係を道徳的・人格的関係としてスライドしソフト化して見せたり、権力的関係に道徳をもぐりこませるのは、国体論が果たす機能の一つであった。そしてその機能は戦前のデモクラットたちが、自らの民主主義論の前提にしていたことでもあった。その論者の代表格が吉野作造であった。「民本主義」の提唱者として知られる吉野であるが、彼の議論は国体論を前提にしなければ成り立たないものであった。
 東京帝国大学を卒業した吉野作造がその翌年の1905年2月に発表した「国家魂とは何ぞや」という論文がある。ヘーゲル流に国家の存在を前提にしたうえで、国家権力が必ずしも国民個人にとってよそよそしい外部的権力であるとはいえないということを論証しようとした論文である。彼はそこで、「国家魂」(「国家意識」とか「国家威力」などとも言い換えている)という各個人から発せられる意識に注目する。「国家魂」とは個人の精神的規範のことであると吉野は説明しているが、要するに若干乱暴にまとめると、それは愛国心のことであった。吉野は、国家権力が人民を支配する際に、「主権者」という国家権力(要するに主権)の代位者を通じて支配すると説明する。もちろん日本の場合はその主権の代位者たる主権者は天皇であるが、その支配が貫徹するためには主権者である天皇が確実に主権を「顕表」することが必要であったとされる。そして、主権を天皇が「顕表」するためには、人民の「国家魂」、つまり愛国心が天皇に主権を「顕表」するよう「指導」することが求められるというのである。要するに人民の愛国心が強く表明されることで、天皇はより主権の代位者であることを自覚し、その結果、天皇は主権を「顕表」することとなるというわけである(以上、吉野作造「国家魂とは何ぞや」〈『吉野作造選集』1(岩波書店 1995年)〉)。

 なぜ、天皇が主権を「顕表」すると、国家権力と人民との間の支配関係が成立するのか。
 吉野はそこで、天皇と国民との関係を信仰の関係として位置づけようとするのである。すなわち、天皇は「我等の人情の源」である「愛の神」、または「愛慕の君」とされた(吉野作造「国家と教会」〈『吉野作造選集』1(岩波書店 1995年)〉)。それは、両者の間に介在しつつ、両者の自然で情誼的な関係を侵害し続ける政治的な存在である「君側の奸」を無限に排除していくことで出現する存在であった。このような「君側の奸」の無限排除の衝動は、農本主義者から昭和戦前期の超国家主義のテロリストや、皇国史観の学者や皇国農民運動家、はたまた無政府主義者にいたるまで広く共有されていたものであった。超国家主義者らの「君側の奸」排除論は、昭和前期に起きた数々のクーデタ未遂事件やテロ事件に関わった者たちの思想に見られるものだが、無政府主義者というのは意外に思われるかもしれない。そもそも無政府主義のなかに権力的関係を社会からいっせいに脱色していくという動機があるのだから、それは不思議ではない。石川三四郎などはその代表格だ(住友・林尚之編『近代のための君主制―立憲主義・国体・「社会」』第2章〈大阪公立大学共同出版会 2019年〉、拙稿「「王政復古」と「人間宣言」」〈『史創』No.9 2019年7月〉参照)。
 このように、私は近代日本の天皇と国民との関係、すなわち君民関係は、「君側の奸」を無限に排除していく衝動をはらみながら、その本質においては権力的関係であるものを、あたかも道徳的で人格的な関係であるかのように装うものとして位置づけられうるものだと考える。
 こうして君民関係が理解されることで、国民は権力的関係ではなく、あたかも天皇との道徳的・人格的関係を通して国家権力と一体となるように観念されるのである。君民一体こそ近代日本の国体論の一貫した理想像であり、君民一体論を通じて、国民は国家とも一体となるのである。天皇の意思はまた国民の意思であり、天皇の決定はまた国民の決定であった。主権の代位者たる主権者天皇との間の道徳的人格的関係を構築することで君民一体が国民に観念され、国民は国家権力(主権)との支配関係に包摂されるのである。

近代天皇制研究のアプローチ―
 このようにして、明治憲法下において、主権の所在たる国民という共同性は、天皇を媒介に準備された。そういう点に鑑みても、国民という共同体があたかも一つのまとまりをもって存在することを象徴するのが天皇であるという理窟には、歴史的な根拠があったことになるのである。
 さらにまた、先に見たような、法や制度を補完する法外の原理が民法の場で醸成され、それが民法を介して日本国憲法に引き継がれていくというのが、私なりの国体論の視座に立った戦前から戦後にかけての見通しである。最初にも触れたように、戦前の国体論は戦後体制の前提とされているし、戦前と戦後は同じであると言うつもりはまったくないが、その二つの時代の境界線には前後を完全に裁断する深い断絶はないのである。
 ここで述べてきたことからもわかるように、私の天皇制についての視角は、近代天皇制はいかにして近代を利用しつつ、その支配体制を維持したかというものではなく、近代を追求した国家社会が、なぜ、そしていかにして天皇を必要としたかというものであった。例えばそれは、近代天皇制はいかにして民主主義をもたくみにその支配のための手段にしてきたかという問題設定ではなく、19世紀~20世紀の日本が民主政の原理を導入していくときに、なぜそれは天皇制を必要としなければならなかったかという問題設定となる。私の場合は、この近代天皇制というものを国体論などの、いわゆる天皇制イデオロギーを論じる視座からアプローチした。
 こういう視座は、次に述べるように、私の場合は国民統合論のなかから導き出したものであった。あらかじめ言うと、国民統合論には限界があった。しかし、そのなかにはいくぶんかのその限界を超える視角がかいま見えた。

歴史学と国体論―
 ここで、歴史学にとっての天皇制、とりわけそのイデオロギーであった国体論について触れておきたい。
 日本史研究の場において、とりわけ30数年前までは、国体といえば、近代天皇制下の非合理な支配イデオロギーであり、これをいくぶんでも許容する歴史上の人物は、近代天皇制に屈服する者とみなされて、低い評価がついた。そういう人物は、近代天皇制に抵抗できない者として、厳しい評価がついた。
 戦後の歴史学は、こういった戦前の支配イデオロギーとの緊張関係なしには存立しえない宿命にあった。そういうなかで、近代天皇制はいかにして統治の正当性を得たのか、逆に国民はいかにして近代天皇制を受け入れ、支配イデオロギーを受容したのかという、双方向からの視角で、近代天皇制国家を論じようとする研究が現れた。1970年代~1980年代にかけての鈴木正幸さんの研究がそのひとつである。
 私は、ある時、その鈴木さんから直接こんな疑問を投げかけられたことがある。「大正デモクラシー運動である憲政擁護運動が天皇制を担保している憲法を守る護憲運動だ、というのはどういうことかということだ。民主化運動が同時に、あるべき天皇制を守ろうとする運動であるとはどういうことか」と。大正デモクラシーの本格的な市民運動としての憲政擁護運動(第一次護憲運動)が、大日本帝国憲法を基礎とする「憲政」を「擁護」する「護憲」運動であったが、そこにこそ大正デモクラシーを考える重要な論点があると私は受けとめた。実際に鈴木さんはご自身の最初の単著である『近代天皇制の支配秩序』(校倉書房 1986年)で、大正期の労働運動や社会主義者たちの言説から、彼ら自身の社会実現のために国体論が引き合いに出されていることを明らかにした。
 社会主義者の「はず」なのに、あるいは大正期のデモクラットの「はず」なのに、なぜ国体を肯定し受け入れるのか。こういう問いの場合には、国体と社会主義、国体と民主主義とは矛盾する「はず」だという想定があらかじめ含まれていると言ってよい。これら両者が矛盾するなら、国体論が強化されれば社会主義や民主主義が抑圧を受けることになる。したがって、大正デモクラシー期は国体論が退潮していく時期であるということになる。
 しかし、実際はそうではなかったし、先ほどの鈴木さんの指摘にあるように、大正政変は大日本帝国憲法に準拠として保持される立憲政を「擁護」する運動によって起き、その意味では国体論をその基盤としていたことは間違いなかった。
 また、吉野作造を初めとする大正期のデモクラットたちや社会運動家たちが、自己実現や自己の主義主張を正当化するために国体論に依存していったという事態を積極的に明らかにしたのが鈴木正幸さんであった。鈴木さんの近代天皇制イデオロギー研究は、こういった戦前日本の支配の統制原理の一端であった国体論を浮き彫りにした。大正期以降の民主化とそのための社会変革にとって国体に依拠する思想に注目し、その論理を明らかにしたのが鈴木さんであったが、日本近現代史研究者の古川隆久さんは「吉野作造の天皇論は今までほとんど注目されたことがな」かったが、河西秀哉『近代天皇制から象徴天皇制へ』(吉田書店 2018年)はそのことを取り上げたことが「功績」であると指摘した(『同時代史研究』第12号 2019年)。だが、それよりもはるか30年以上も前にそのことを論じていたのが鈴木さんであった。
 鈴木さんは、河西『近代天皇制から象徴天皇制へ』が取り上げた吉野や永田秀次郎の国体論をすでに取り上げており、戦前のデモクラットであれ、支配層であれ、君民両者の情誼的・人格的関係をこそ国体と位置づけるものであったこと明らかにし、国体でさえ民主制論と矛盾しないものだと主張されだしたのが大正期だと述べていたのである。だから国体論と民主制論が調和しうることのみを強調するような研究状況はとうに過ぎたというべきである。そういった君民一体としての国体を論じ、それを前提として民主制論を主張したことの意味について解くことが重要なのである。にもかかわらず先のところで滞留するのでは、30年遅れていると言わざるをえない(拙稿「書評:河西秀哉『近代天皇制から象徴天皇制へ』」〈『歴史評論』837号 2020年1月〉参照)。

近代にとっての国体論―
 私も、吉野作造をはじめ戦前デモクラットらの天皇論について、これまで何度か取り上げてきたが、私の場合は天皇論や国体論に主軸があるのではなかった(前掲拙著『皇国日本のデモクラシー』第10章、拙稿「国体と近代国家―吉野作造による〈主権者と臣民との関係〉認識から」〈『人文学の正午』第4号 2013年〉など参照)。近代という時代が、身分にかかわらず一定の領域内の人民に生存保障と一定程度の文化水準を保障する権力として国家に正当性を与えつつ、その巨大な権力に一定程度の制約を同時に課すことを余儀なくする時代であるということを踏まえ、にもかかわらず、日本ではそこになぜ君主的な存在である天皇が主権者として必要とされるのかという観点から天皇論や国体論を論じようとしてきた。この点は鈴木さんの視座に近いが、私の場合は、さらにこの君民が情誼的・人格的関係にあるとされることの意味は何か、なぜ統治権の総攬者と臣民とが情誼的な関係として捉えられるのか、そのことと近代国家であるということとの関係はどのような構造と仕組みになっているのか、そういう問題をとくに掘り下げてきた点は、私なりに新しいと考えている。こういう観点からすると、戦前日本の君民が情誼的・人格的関係であったと指摘する地点にとどまる河西さんの研究は、物足りなさが残る。この点は掘り下げておかないと戦後につながらないし、それとの関係抜きには象徴天皇制とは何かが明らかにできないと考える。

 近代天皇制下の君民関係は情誼的なものであると認識・理解されていたとだけ把握するのでは物足りない段階に、いまの近代天皇制研究は到達している。では、その先に何を明らかにし、どう考える必要があるのだろうか。

 私の注目する研究視座は、近代天皇制国家が「いかに」国民を統合したかという問題にとどまらず、国民自身が「なぜ」近代天皇制支配の正当性を受容したかという問題を重視する点にある。私がこの点で注目したのが国体論であった。とりわけ君民が情誼的・人格的関係にあったとされたことの意味についてである。国民統合論であれば、近代天皇制国家は国体論を通じて国民をたくみに統合したという話になるが、それでは国体論とは何か、国民が国体論を受容したことの意味とは何か、こういった問題群がややおろそかになるのである。
 こういった問いには国民統合論はなかなか答えてくれなかった。国民統合論の視座を持ちながらも、変革主体としての労働者などの内面や主体がどのように形成されるかという問題に肉薄しようとした鈴木さんの研究は、そういうなかにあっては私にとっても最も魅力的なものであった。鈴木さんの研究は、国体論を支配イデオロギーの側面と社会運動などに見られる変革主体としての主体形成の側面の両面からアプローチするものであった。
 私はそのうち、戦前の知識人らを中心に日本人が近代国家を構築する価値を内面化する個人がその国体論によって構成されていく点を追究してきた。国体論は、統治される側の臣民自身によって熱心に説かれたものでもあり、そのことを通して国体は、国体論として存在し続け、国家をも社会をも自己統制の次元で拘束していった。人々が論ずることで維持されていたのが国体であった。空虚で捉えどころがなかったのは、そのためである。

国民統合論を乗り越える―
 もうひとつ、国民統合論を乗り越え、近代天皇制国家がどのような社会的・文化的基盤のうえに成立したかを論じた仕事に羽賀祥二さんの『史蹟論―19世紀日本の地域社会と歴史意識』(名古屋大学出版会 1998年)がある。本書は、近世末に各藩だけでなく、国学者や有力農商民たちが地域の歴史や伝承などを発掘しながら、それらを地誌編纂や史蹟保存・顕彰につなげて、そのことを核に身分を超えて地域や藩を新たな文化的公共空間として創出していこうとする試みを丹念に明らかにしたものであった。そのことによって被治者身分のみならず、政治権力すらも、そのような文化的公共空間(模範的領主権力とそれを尊敬する領民による倫理的共同体)に感化され、その支配のあり方が規定されていく事態を論じている。衆庶の民が公権力によって、こういった文化的イデオロギーを通して一方向的に支配されるのではなく、他ならぬ公権力もまたその文化的イデオロギーに拘束されることをわれわれに示唆してくれた。史蹟とは、単に公権力による支配の道具ではなかったのである。ただし、本書は学界のなかで必ずしもそのようには受け取られなかった。史蹟は公権力が民衆を支配するための道具であると捉えられ、相変わらず旧来の国民統合論の図式で理解されていたのは残念であった。
 近代の公権力は、一方的に人民を支配するのではなく、支配する当の公権力すら、それを超越する文化的公共空間に拘束を受けた。イデオロギーは権力の従属変数ではなかったのである。

 近代を追求しようとした結果、日本はあのような君主制、あのような国体論を必要とした。それらは、そこで生きる人々の主体形成や人格陶冶にとって必要でさえあった。私は、そのように説いてきた。個人重視なのか国家重視なのかという二項対立の構図からも自由でいたいと考えてきた。
 そう考えていくと、時には天皇の「大御心」が大衆意識の変数となる場合も想定することもできた。なぜなら、天皇自身は空虚な存在であり、だから人民がそれぞれ自らの内面に設定した天皇自身の姿に自らの「良心」を自由に書き込むことができたからだ。それがとりわけ、大正期以降の社会の状況であったからである。
 国体論が国家権力のあり方を制約したことを示す興味深い事実をひとつ上げてみよう。
 英米開戦の直前、政府は軍事資源の確保のために市民生活などに関わる金属品の回収をはじめた。その際内務省は、学校に配置された御真影奉安殿(天皇皇后の肖像画や教育勅語の謄本が安置された施設)を取り囲む鉄柵も回収の対象にしたのである。内務省から各自治体、さらに各自治体から各学校に出された公的な通牒には「児童教育上特ニ皇室ノ尊厳ヲ損セザル様格段ノ配意」をし、撤収する際には「人目ニツカザル様迅速ナル処置ヲ」講ずるよう、注意がなされた。そして学校現場には「児童ニ対シ回収ノ意義ヲ良ク理解セシメ教育的効果ノ維持昂揚ニ留意」せよと指示がだされた(萱野村役場『昭和十六年十二月起 金属品回収書類』〈箕面市役所所蔵〉)。国家権力が国民教化のために仕掛けたイデオロギー装置の取り扱いについて、仕掛けた側の国家権力が「人目」や「児童」からの眼差しに煩悶したという場面であった。

 ところで国体論について、以前までの日本近現代史研究者の捉え方にはかなり大雑把なものがあった。そういうなか、私が愛知教育大学に職を得て3年目の1996年度に送り出した卒業生のなかで「終戦工作」を卒論のテーマに取り上げた学生がいた。「終戦工作」に関わった者たちの合い言葉は周知のように「国体護持」であった。これまでこの「国体護持」というのは、近代天皇制を「護持」することだと理解されてきた。ところが、どうも「終戦工作」を子細に見るとそうではなさそうなのである。「国体」を制度としての天皇制と同義と見たり、その「国体」の内容を絶対主義的天皇制に合致するものとして固定的に見たりするのはミスリーディングであるということがわかりだした。つまり、「護持」しようとしている「国体」の中身が戦前の歴史のなかで変わっているのではないか。そう、その卒論で教えられたのである(その後、昆野伸幸さんの研究により、戦前日本において論じられてきた国体は決して固定的静態的なものではないことが明らかにされた)。
 ただし、問題は国体の中身ではない。先述の通り国体は論じられることそれ自体に意味がある。そういう点に私は注目するという意味で、国体の機能論を重視していると言える。

国体と市民宗教―
 国体論の機能論、つまり近代国家にとって国体なるものがどのような役割を果たすか、そのことを明らかにすることによって、改めて近代とは何かを考えてみたいのである。
 戦前日本という時代は、国体なるものをめぐって万人が語り合う空間を形成してきた。君主の支配の正当性の起源でもあり、その国土に暮らす国民の行動だけではなく内面をも拘束する国体とは、何であったのか。その語られた中身に還元することによってだけではなく、そのように語られたことで国家や国民がどのような作用を受けたか、そういうことも含めて考える必要がある。
 そういう意味で、国体なるものの近代国家にとっての役割という問題は、決して近代日本だけの特殊な論点ではないだろう。
 欲望の主体である人間の存在から一般意思の成立を考えようとしたルソーが、結局、近代国家を考える時に市民宗教なるものを想定せざるをえなかったことと、そのこととは関係してくるのではないか。
 ルソーが『社会契約論』で述べていることは、法を行使しうる国家権力が市民を支配することと、神のもとに信仰によって人民を縛りつけることとは、大きな隔たりはないということだ。つまり、人々が国家を根源的に支持するのは、民意を下から民主的に積み上げていくという手続きによってではなく、個人的な信仰という精神的な作用によってではないかということだ。市民が法を受け入れて従うのは、あたかも信仰と同じようなものであり、したがって「忠実な臣民」は「市民的な信仰」を通じて創られていく。しかもその市民宗教的教理は、国家による強制ではなく、それを信仰しない者を「非社交的な人間」として「追放」するという方法によって成立するというわけだ。神と法とは区別されず、したがって遵法と信奉も同一視される(ルソー『社会契約論』〈岩波文庫 1954年〉第4編第8章)。
 これは、国家と市民との支配関係が教理と信者という関係にスライドして人々に了解される事態であり、近代天皇制国家がその支配関係が君民一体を媒介とする国体論という領域で臣民の内面に浸潤していくことと多くの共通項がある。実際に近代天皇制国家は、大日本帝国憲法を媒介とする立憲主義を、教育勅語を媒介とする君民の非立憲主義的領域で受けとめたあと、結果的にその支配を貫徹していくさまに似ている。そういう意味でルソーの市民宗教論は、国体を機能論的に考えてきた私にとって、きわめて示唆的な論点である(以上のような観点での市民宗教論への着目については、西川長夫さんや三谷太一郎さんらの指摘も参考になった)。

 近代の社会にとって、そもそもその始まりは、法や制度が法や制度の内容の正しさによってではなく、法や制度を作った者の正しさをこそ前提にしていたということに注目するなら、例えばこういうように考えてみたらどうだろうか。社会のルールとして「自由で行こうよ」ということを社会の構成員の合意で決めた場合、ならばその〈自由を破壊する自由〉を行使したいという者が現れた時、それを即座に排除することは難しい。なぜならそれもまた自由だからだ。しかし、それだと自由そのものの存在の根拠すら覆されてしまうので、なんとしても〈自由を破壊する自由〉の声を予め封印しておかねばならない。自由というルールを起動させるためにこそ、そういう全破壊的な声をいったん封印するための前提が必要であった。そのための方法は、〈自由を破壊する自由〉を、そのルールが及ぶ共同体から排除しておくということだ。
 そういう前提を共同体の構成員がすべて共有することができるなら、全破壊的な声を封じ込め、その黙契のうえに安心して自由の法や制度を樹立させることができる。すなわち、そういった前提を築くため、共同体構成員にその前提の正しさを事前に感化して内面化させる役割を果たしたのが国体だったのではないか。
 これが国体が空虚だと言われる理由であり、日本の社会の成り立ちとして八百万の神による合意という原始契約を共同体の構成員に結ばせることの理由であった。

日本国憲法体制と天皇―
 そういった神話に根拠を置く共同体構成員の原始契約が否定された敗戦後の今日を見てみると、日本の社会と神話との関係は必ずしも完全に断絶したとはいいがたいのである。2019年5月1日に即位した現在の天皇は、賢所(かしこどころ)で「即位礼当日賢所大前の儀」を行ない、天照大神に対して即位礼を行なうことを報告し、また神武天皇以来の皇室の霊を祭る皇霊殿や八百万の神を祭る神殿でも同様に報告を行なった。そのあとようやく「即位礼正殿の儀」で天皇が高御座(たかみくら)にのぼって国民の代表たる総理大臣を前に言葉を述べた。さらに11月22日から12月3日にかけて、アマテラスを祀る伊勢神宮、奈良県橿原市の神武天皇陵、京都市の孝明天皇陵と明治天皇陵、東京都八王子市の昭和天皇陵と大正天皇陵を参拝し、即位式と大嘗祭を終えたことを報告した。
 昭和天皇のいわゆる「人間宣言」により、「天壌無窮の詔勅」(アマテラスの皇孫が日本の統治者になることをニニギノミコトに与えたアマテラスの言葉)が天皇支配の正当性の起源であることを否定したものの、自らが神の末裔であることは、こういった儀式を見ても否定していないことがわかる。「天壌無窮の詔勅」が天皇をして国民統合の象徴たらしめている正当性の根拠なのではなく、神の末裔である天皇が国民との間に情誼的・人格的関係を築いてきたという「歴史」をその根拠に置こうとしていたということは先述の通りである。なぜ敗戦後になっても、天皇はこのように神裔であることは否定しなかったのであろうか。

 それは、一つには天皇(皇室)の日本国憲法におけるその存在の意味と関係しているのかもしれない。天皇(皇室)は日本国憲法体制での唯一の非人権的主体である。天皇には移動や職業選択の自由や、選挙権を行使したり自由に政治的な発言をしたりする自由は保障されていない。納税の義務もない。そもそも苗字がないのである。そういった非人権的主体である天皇が、主権者である国民が統合されているさまを象徴しているのだ。
 ところが、2016年8月8日に明仁天皇によって「生前退位」をほのめかす談話が発表されると、「天皇も人間」「天皇に自由を」という議論がわきおこった。そのようななか、誰も「退位の自由」は言っても、「即位の自由」は言わなかったのである。出口の自由は言うが、入口の自由は言わないのは、やはり論理一貫性がない。辞める自由はあっても、天皇にならない自由がないのであれば、天皇は人権主体たる人間にはなれない。
 いくら皇室が開かれようが、天皇がリベラルな発言をしようが、やはり天皇という存在は日本の社会と法のなかでは超越した存在なのである。いったい天皇とは何だろうか。

内在的に理解すべき過去(他者)としての国体―
 最後に、天皇の論じ方、あるいは天皇について考える姿勢について言及したい。
 今の目から見れば、大日本帝国の構想やその思想的基盤は、いかにもイデオロギッシュで空疎なように見える。しかし、そういった構想や思想がいかなるロジックで構成され、なぜ形成され、なぜそのような考えを多くの人々が受容したのか。イデオロギッシュな精神論、神話に淵源する皇室の崇高性、非科学的な国民性論に頼った訓話、こういうものを「偽り」とだけ指摘するのは、過去を切り捨てているだけだ。なぜその「偽り」がまかり通ったのかを解明してこそ、初めて現代の我々もそれを乗り越えられるのではないか。
 現代の我々は、過去に対してだけ特権的でいるわけにはいかない。むしろ過去に内在して過去をその視座から認識して理解し、そのことを通して現代の我々を改めて俯瞰して相対化しなければならない。過去を切り捨てる癖は、現代の我々を特権的な場所に置いたまま安住させはしないか。そういう観点も必要だ。
 私の大学時代のある指導教員が、「北一輝が書いたものなんて何を言ってるのかよくわからん。自分がよくわからないものはいくら読んでも訳がわからないので、そんなものはまともではないのだから、真面目に付き合う必要なし」と切り捨てられたのを覚えている。私はそれでもなお「よくわからん」ものを内在的に理解する必要があると考える。
 過去を理解するということは他者を理解するということだし、外在的に切って捨てる姿勢は学問的ではない。内在的に理解することでミイラ取りがミイラになるかもしれないリスクというものを冒すかもしれないが、そのことから逃避していては過去を理解することなどできない。そんなふうに考えている。

(執筆者紹介)
 住友陽文(すみとも あきふみ)
 大阪府立大学人文科学系教授。日本近代史(政治史・政治思想史)専攻
 主要著書:『皇国日本のデモクラシー』(有志舎)
      『核の世紀』(編著、東京堂出版)