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書評|横道世之介

 『横道世之介』を読み、僕の頭には真っ白なパレットが浮かんだ。表面は滑らかで、光を写す。物語の主人公である横道世之介は透明だ。長崎から上京した大学一年生。平均的で、何者でもない。何色にも染まっていない彼が、何かに染まろうとする。その過程をこの作品はみずみずしく描き出す。

 何者でもなく、眼の前に積まれた膨大な時間。移ろう季節の中で、世之介は時を過ごす。新宿、歌舞伎町、渋谷、原宿、赤坂。西武新宿線を回路とし、東京を舞台とした大学生活は色彩豊かだ。友人たちとの出会い。サンバサークル。高級ホテルでのバイト。デート。世之介の意志によって手繰り寄せた道は一つとしてない。偶然の産物。しかし、荒波に翻弄されながらも、日々を駆け抜け、結果として成長していく様は僕の過去とも共鳴する。

 「もっとこうしていれば」「違うことに時間を使っていれば」。振り返ると、際限なくそういった感情が浮かぶ。「あの頃に戻りたい」とも思う。でも、それは本気ではない。「それも自分だった」「それも経て、今の自分になった」。波立つ海面が穏やかさを取り戻すように、自問自答は収束していく。

 未来に広がる可能性。何者でもないとは、何者にでもなれるということ。背伸びをする人。早くに未来を決めた人。生まれ持った宿命を背負う人。現実と同様に、多彩な人間がそこにいる。しかし、世之介を中心に描かれる、自由な時。そして、疾走感のある文章。それらに促され、無限の荒野に向けて駆け出したくなる。

 光り輝く太陽。どこまでも広がる湖面のような空。風を顔に受ける。この清涼感は世之介の物語だからだ。無色透明。しかし、人々が世之介を受け入れるのは、本当に透き通っているからだ。大抵の人々は夢、希望、反感、邪心、そういったものを内に秘めるのではないか。

 元恋人の祥子が残す、「いろんなことに、『YES』って言ってるような人」という回想。人としての純度の高さ。それこそが世之介であると僕は感じる。

 吉田修一は人間が持つ危うさ、裏に潜む狂気を世に残してきた。『横道世之介』は『悪人』『怒り』『パレード』などの作品と比べ、温和と言える。しかし、幸福な膜に包まれながらも、どこか淡々とした寒気を放つ。過ぎ行く時間。消失する関係性。未来の可能性は無限大だが、そこは暗闇でもある。生の脆さがそこにある。それが光と合わさり、作品の味わいに深みを生む。

「大切に育てるということは『大切なもの』を与えてやるのではなく、その『大切なもの』を失った時にどうやってそれを乗り越えるか、その強さを教えてやることなのではないかと思う」

 じんわりと体内を巡る。祥子が残した、この言葉を作中で世之介が体現する場面はない。世之介と結びつけるには高尚な感もある。しかし、何色にも分類できない、自分だけの色。純粋であり、強靭。世之介は特定の誰かに教わったものではないのだろう。しかし、身近にいる人々は世之介を通じ、それぞれに大切なものへと導かれる。心に温もりを湛え、僕は本を閉じた。


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