要領がいいことが最も非効率

学生が授業に出席していない様子を見かけても、私は特に注意しない。
大学なので、受けるも受けないも自己の選択に委ねられている。受ける自由もあれば、受けない自由もあり、それがどちらも本人の意志によるものであるなら、同じように尊重されるべきだと思うからだ。(もちろん、病気やその他の理由によって出席できていない場合は、できる限りのフォローをする。)

何も言われないことをいいことに出席だけ顔を出したり、出席代わりのコメントカードだけ提出して教室を抜け出し、その時間おしゃべりに興じている学生も、なかにはいる。明らかにサボっているな、ということが見受けられても、それでも私は放っておく。人生の時間をどう使おうと、人の自由だ。もしかしたら、そのおしゃべりは人生を左右する話かもしれない。こちらがその時間の価値判断をどうこう言う権利はない。

だが、もしそれを自分で「要領がいい」と思っているのなら、もしくは、そういう学生を見て「要領がいい」と思う人がいたなら、それは間違いだと言いたい。

うまいこと表面を取り繕いながらサボれたことを「要領がいい」と形容するのは、ことばの使い方として誤りである。
首尾よく目的を達成できてはじめて「要領がいい」と言えるのであって、達成できなければそれはただの怠けにしかならない。
では大学における「達成」とはなにかといえば、考える機会をどれだけ持てて考える時間をどれだけ作れたか、ということであり、単に単位を取りこぼさないことではない、と、私は思っている。

何学を専攻していても変わらない。考えられる人になれなければ、大学なんてなんの意味もない。
考えるヒントやツール、考える枠組み、技術、スキル、多様な考え方、事例、過去の膨大な蓄積の一端などを与えるのが大学の授業の仕事であり、それらを使ってひたすらに考えるのが学生の仕事である。
わかりやすく言うと、大学の役割はスポーツジムみたいなもので、学生はそこで思考力という名の筋肉を鍛えるんである。私はそんなふうに大学を捉えている。

そういう意味で、サボる学生というのは最もそこから離れることをしている。全然要領が良くない。自分では要領がいいと思っているかもしれないが、それはその実、もっとも非効率な手段をとっているように私には見える。
そのことに、早く気づくといいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?