判子と紙

大学に勤め始めて最初に衝撃を受けたのは、判子文化だった。前職ではほとんど判子を使用することはなかったが、現職では判子をなくすと仕事にならない。
(※この判子文化の度合いは、かなり大学による。上に行政畑の人が多いと判子文化が強くなると思われる)
昨今の流れで手続きの書類に判子がいらなくなるのはよいと思うが、その先の業務から判子をなくすのは至難の業ではないかな、となんとなく思う。人の習慣や常識を変えようとすることだから。

勤め先の場合、あらゆる書類に判子が必要だ。
作成者、確認者、意思決定者。受付、受理、審査済、承認、決裁など、一定の手続きが終わったところで押すものもある。判子を押さない日はない。
担当者が自分の裁量でできること、1人で決められたり1人で完結する仕事というのは、ごくごく限られていて、そうでない、組織としてしなければならないことには基本的にすべて決裁がいるので、結果すべてに判子がいる。
サインでも判子でもいいよ、となるだけでは、おそらく判子は残るだろう。これだけ使用頻度が多いと、手書きの方が面倒なのでいずれ判子がほしくなってくる。

結局のところ、判子を押す必要のある紙の書類が多すぎるという問題に行き着く。この間もホチキス針ひと箱(1000本)を使い切って、処理した書類の数にげんなりした。
紙の書類にして判子を残すというのは、全ては意思決定の証拠を残すためだ。
はじめに誰の意思があって、誰が処理して、誰の目を通り、誰が良いといったのか。それを全て残して整理しておくため。
こうしたいです、いいんじゃない、というのはメールや会話で事足りるといえばそうなのだが、こうしたいです、いいんじゃない、が、「確かにそうであったことを正式に残しておくため」にわざわざ文書の形にする。そして、それらが「確かに関係者を通っていて了承済みであることを後から見てわかるようにするため」に判子を押す。
要は記録、ログだ。ログとして紙と判子を使っているのだ。そういう世界。  
(さらに言うと、書類はすべて下から上にあがっていくルートしかない。外から降ってきたことも上がやりたいことも、下が書類に落とし込んで下からの発案として上に上げていき、上は承認だけする仕組み。これもよくなんだかなと思う)

日々やっていることを思い返すに、直接的な業務のエフォートはどれくらいなんだろうか、とふと思う。こうしてみると、直接何かしている時間よりも、文書として整える時間、ロガーとして過ごす時間の方が長い気がする。
ログなんて残さなくていいよ、ってなれば、もしくは、メールや電子ファイルがログ代わりでいいよってなればいいのだろうけれど、組織構造や担当者や決裁権者が常に変動しているという問題があり、ハードルは高い。
ある程度組織がかたまっていて、人も動かず、決裁権者が確実に責任を取れるのであれば、そこまで書類の形でログを残す必要はないかもしれないが、毎年半分くらい(決裁権者含め)人が入れ替わるような環境では、「誰がいつそんなこと決めたの」「いつどこでそんな話になったの」という話だらけになる。
そうでなくても監査(会計に限らず)もあるし、過去の経緯や事実確認が必要になる事態はけっこうあるし、どうしてもみんなにとって扱いやすくわかりやすい確実なログが必要になる。
誰にでも見やすく作りやすく管理しやすいログ、ということを考えると、やはり紙はバリアフリーなところがあるので、紙と判子のやり方は仕方のない部分もあるのかな、とも思う。

全てのやり方を変えるだけの動機・予算・時間・人的資源、組織内のあらゆる人たちにこれまでの風習を変えさせるだけの労力、そういうものが、果たして紙の楽さに勝てるかどうか。みんな、判子がなくなったらまず不安を覚えそうな気がする。これでいいのかな、と。一部の処理、一部の部署においては可能でも、全部はやはり難しいのではないか。
第一、何かを変えよう、新しいものを取り入れよう、というときにこそ、余計にたくさんの書類とたくさんの判子が必要になってしまう世界なのだ。判子をなくすまでに必要な判子の数を考えると、やっぱり無理なんじゃないかとげんなりする。無駄な抵抗はよせ、と言われているような気がする。

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