一人、について。

初めて部屋を借りることになったときや、奨学金を借りようとしたとき、痛感したこと。
それは、人は一人では生きていけないのだということ。
連帯保証人の5文字がとにかく重い。

親や、きょうだい、親戚。たいていはそのなかで頼むのだろうが、いない場合や、保証能力がない場合だってある。スムーズにお願いできるとも限らない。頼める人をとにかく探して、たとえ折り合いが悪かったとしても誰かにサインと押印をしてもらわねば、一人では契約を結んでもらえない。好きなところには住めない。お金も借りれない。(まぁ、お金を積めば保証会社という手もあるのだが、それもだめだったり、保証会社を使っても連帯保証人が必要なこともある)
貸す方からしたら、貸し倒れリスクは減らしたいから、仕方がないのは分かるんだけど。どんな人かも分からない輩に貸すのは、そりゃ怖いだろうけどさ。
なんだかな。たとえ貯金や収入のあてがあっても、自分一人では自分の人生に責任を持てないんだな、ということを、引っ越しのたびに感じる。
大学も、高卒すぐに入学するのを前提にしていて、大金である学費の支払者や保証人は基本的に親を想定している。一人で人生を賄えないことを、とうぜんとしているわけで、いつもなんとも言えない気持ちになる。18歳で成人になっても、これは変わらないだろうと思う。

一人で生きていけたらいいのに。
一人で簡単に生きていけるよって、言いたいのに、一人で生きていくのは保証や説明が大変だよ、にしかならない。いくら大人になっても。
それがとても残念な気がする。

しかし考えてみると、金銭絡みのことに限らず、社会生活というのはもともと一人では完結できないのかもしれない。
私が私という存在であること、私が私の名前に名付けられた人であること、つまりは本人確認というのも、一人ではどうにも証明できない。
戸籍に住民票、免許証、パスポート、保険証。今、幸運にもそれらを持てていて、登録されている人は私であることは確からしいと思ってもらえる状態にあるけれど、全て失ったときに、登録されている人物、名前、それは私なんです、と、どうやって証明したら良いのだろうか。私を知っている人が、もしこの世に誰もいなかったら。

一人で生きていきたい。一人で生きていきたいけれど、誰かは私のことを知っててほしい。私をよく知っている人には、生きててほしい。
なんて、とてもエゴイスティックなことを、考えてしまった。

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