栗の話

もうすっかり涼しくなった。

この間散歩に行ったら、栃の実がたくさん落ちていて、切り株にきれいに集められていた。木の実って不思議と集めたくなるものだ。それが大きくてきれいなものなら尚更。
それを見てふと栗ごはんが食べたくなって、連休中に生栗を買って処理でもしようかなと思っていたのだけれど、山登りをしたら疲れ果てて、連休後半にはそんな気も消え失せてしまった。

栗の処理は気力と体力、そして集中力がないとできない。その年に栗ごはんを食べられるかどうかは、そのときにあるそれらの力の残量(つまりは面倒くささ)と食べたい意欲とを天秤にかけてどっちが勝るかの勝負だ。一昨年は栗を剥いた。去年は無理だった。

まぁ、剥いてあって炊き込みご飯の素みたいになってるのを買ってきたり、おこわ屋さんで栗ごはんを買ってくれば早い話なんだけれども、これもいちじく同様、記憶と味とが強力に結びついていて、剥いた生栗で炊くもの以外どうにも満足できない。なんとも面倒くさくて贅沢な舌をしているな、と我ながら思う。

生まれ育った田舎では、10月の祭りには決まって栗ごはんを炊いた。これが大好きだった。このために9月の末はひたすら栗剥きをするのだが、小さい頃は危ないからと剥き係には任命されなかった。
ばーちゃんの家で、夕方、大岡越前とか水戸黄門とか、それが終わってからの相撲の九月場所が流れる中で、次々に栗が剥かれていく。
私は剥いた栗の皮を捨てるための紙箱を広告を折って作る役で、折を見て皮がたまったら新しい紙箱と交換する係だった。
鬼皮は嵩張るのですぐに箱がいっぱいになる。時代劇を見ているといつの間にかいっぱいになっていて、ばーちゃんに「ほれ」と指摘されて慌てて交換したりした。
渋皮は濡れているので紙箱もすぐにふにゃふにゃになる。大きい広告を使って二つ折りの状態をスタートとして折る、という技能も習得したけれども、結局のところ、大判の広告(家電屋さんの広告など)よりも厚手の広告(住宅の広告など)を選ぶのが良いということを学んだ。

自分で剥くようになってからは、栗剥きにいかに力がいるかを知り、ばーちゃんが指に絆創膏を巻いていた理由を知った。ナイフがあたっていずれ痛くなるので、力がかかるところに事前に巻いておくのだ。指ぬきみたいなもの。
ナイフを力を込めて握りすぎるせいで、栗剥きをした次の日は右手が筋肉痛になる。ばーちゃんはもっと大量にらくらくやってたんだけどなぁ、手の経験値がやっぱり段違いだ。なんてことを思ったりする。

今じゃ楽に剥ける道具も売っているようだけれども、年に一回あるかないか、しかもちょっとの量しかやらないのにあってもなぁ、と思って、まだ買わないでいる。
もしかしたら買ってしまえば毎年栗を剥く気になるのかもしれない。そして毎年めでたく栗ごはんにありつけるのかもしれない。
でも、そしたらそしたで、何かを忘れてしまいそうな気もして、やはり二の足を踏んでしまうのだった。

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