大学教員の絶対不可侵領域

大阪から帰ってきたら、一気に現実に引き戻された。今週は問題続きで精神疲労がひどかった。
大抵のことはわりかし前向きな私も、今回ばかりは無力さにさすがに打ちのめされる。
詳しくは言えないが、何かというと、まぁ、教員の絶対不可侵領域に触れることである。

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大学教員の絶対不可侵領域は、私が思うに、3つある。
一つは、研究。(研究内容、研究方法、研究活動等)
一つは、教育。(授業内容、教え方等)
一つは、成績評価。(評価基準、評価方法等)
である。これらの領域は、教員の自由と裁量に基づくものとされ、基本的にはいかなる干渉も受けない。

そのため、これらについて口出しされることを教員は非常に嫌い、教員個人同士でもあまり互いに関与・干渉しないという不文律がある。まして職員が意見しようものなら、まず聞いてくれはしない。
一般的な感覚からしてどうなんだろ、と感じることがあって話をしても、たいていは、不可侵を犯す不快なものと捉えられてしまい、ただただ強固なA.T.フィールドに跳ね返される。そんなときの言葉の届かなさにはひたすら絶望する。

みんな元からちゃんとやるだろう、というような性善説と信用を前提として、教員には事務局よりもはるかに強い権限と裁量がある。一人ひとりに、独立した、非常に強固な権限だ。
しかし、これはものすごく恐いことだ。不可侵であるということは、ブラックボックス化、密室化しやすいということだから、その分不正やハラスメント、グレーな行為も起こりやすいのである。なので、教員にはそうとうな自律性と倫理観が必要となる。
けれども、そもそも、そのような自律性や倫理観を身につけていく機会が少ないままに教員になったり、抑制機能の薄い環境にいて未熟なまま大きな権限を手にする状態になると、悪いことも何が悪いのか気づけずにただただ不可侵を主張して好き勝手やるような人がでてくる。
個人的には、不可侵を主張するならその分の条件として、他者の意見を謙虚にきいたり、自らを律し良くしていこうとするのは必須だと思うのだが、そのようなことは顧みられず、不可侵の権利の主張のみが強化されていってしまうことがある。
あとから自律性や倫理観を身に着けさせてはどうかと思うかもしれないが、考え方、振る舞い方が固まってしまってから変えることはほぼほぼ不可能である。研究倫理教育やハラスメント講習などは、困ったことに、受けてほしい人に限って受けないし、刺さってほしい人に限って刺さらない。教員コミュニティによる抑制(外発的動機づけ)がそうとう働かない限り、それらの人を変えることは困難である。

唯一この不可侵領域に侵入できるのは、同じ教員のコミュニティのみである。

教員コミュニティとは、たとえば、講座、学部、学科、教授会、委員会、会議、学会、研究会等のことで、同じ教員で構成された組織による監視・干渉は、パワーバランスにより多少は受け入れてもらえる。
教員コミュニティ内で、非難される、村八分にあう、居られなくなる、研究できなくなる、というような恐れが発生するからであり、それによって初めて自制が働く。それ以外に、不可侵領域内の良くない行いを改めさせる方法はない。

教員でない者が不可侵領域にかかる話をするには、そういうコミュニティの抑制力を使うしか方法はない。今回私にとって看過できない問題があってそこに訴えかけていたのだが、その抑制は、しかし、結果、働かなかった。
その組織の長が絶対不可侵を優先する判断を示してしまったために、その問題が是正される機会を失ってしまったのだった。問題があるとは認められ、今後をどうしていくかという話にはなったが、もともとの出発点となった問題の解決には至らなかった。
教員コミュニティの力は、このような危険性をいつも孕んでいる。その場の空気感により、抑制とは反対に働くこともあるということだ。今回は会議の決定という、大義名分を残してしまった。こうなると逆にお墨付きを得たことになるので、覆すのが却って難しくなる。

このようにして、声は、かき消されていくのである。

私は無力だった。


教職協働なんていうけれど、教員は大学内での身分制における貴族であって、職員は所詮平民でしかないのだと思い知らされる。こういうとき博士の学位と教員の身分がないと、爵位がないことと同じで、発言力なんて無いに等しい。内部の職員の意見より、学生や外からの訴えのほうがまだ動く。

脱力感と徒労感が半端ない。

いつになったら話を聞いてもらえるんだろう。問題は今起きているのに。

ちょっと疲れた。

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