解毒の旅路

以前に、「なぜ詩が好きか」ということを書いた。

そのときの答えでは「詩はほんとうの純度が高いから」、ということだったのだが、よくよく考えてみると、それでは答えになっていなかった。

ほんとうの純度が高いものがではなぜ好きなのか、ということを次に考えなければならない。

最近このことをずっと考えていた。ぐるぐると。このぐるぐるの中身を少し書いておく。

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まずは「ほんとう」について。

以前から私の文を読んでくださる方は、私がときどき「ほんとう」とか「ほんとうのもの」などと書いているのを見たことがあると思う。プロフィールにも書いているし、固定してる記事もそう。
これが何なのかというのはなかなか説明が難しいのだが、簡単に言うと「嘘偽りのない、純なもの」というような意味で、もう少し言うと「あ、これは世界のほんとうだ、と、私が直観的にすっと信じられるようなもの」、という意味だ。
そういうほんとうを、このnote上でもいつも探し求めているし、誰かのほんとうを吸収したいと思っているし、無理だと思いながらも誰かとほんとうを交わし合いたいと思っている。

では私はなぜこんなにも「ほんとう」を探し求めているのか。

おそらく、その元は、過去の私の中にあるんだろうな、というのが今のところの考察。


私はかつて近しい人からけっこうなことばの毒を浴びた。
人が人に毒を浴びせるのも間近にたくさん見てきた。
私は私に与えられた毒や飛散した毒を猛毒とも知らずに、飲みこみ続けてしまった。
大量に浴び続けたので、今では多少の毒への耐性は身についたし、何が毒か、ここに毒が含まれているかも、比較的簡単に見分けがつくようになったが、今も中毒症状自体は残っている。傷ついたままのこころを引きずっている。

そうして毒におかされながらも私がなんとか生き延びてこられたのは、一部では毒を中和することができて、こころの最後の砦までは破られずに守ることができたからなんじゃないかと思った。

私の毒を中和し、傷を癒やしてくれたもの。
それは、主に、私の書くものをだいじに読んでくれた友や、文芸部の仲間、聴いていた音楽やことば、読んでいた本、習い事の先生、匿名の掲示板やチャットなどだった。それらは、私そのものをそのまま包み込んでくれたし、私の代わりに私のことを言ってくれた(ように感じられた)。

書くものの中に宿る私の「ほんとう」を、そのまま受け取ってもらえた経験。同じように誰かの「ほんとう」を受け取る経験。そういった「ほんとう」の通信によって、私の毒は中和され、なんとか生き延びたように思う。

私がなぜ「ほんとう」を求めるのか。

それは、私は今も「ほんとう」によって、精神を解毒したいのだと思う。何かを伝えたい、何かを知りたいよりも先に、真っ先に私を救いたいのだ。たぶんそう。
「ほんとう」の潜むことばを読み書きすることが、私を救うことを知っているから、私はほんとうを探す。人の「ほんとう」も自分を映して理解するために利用する。
求めて求めて、解毒する。たぶんそういうことをやっているのだ。

そうするとやっぱり私は申し訳ないくらい自己中なのだけど、同時に、読むことで人の解毒にも手を貸せるだろうこともなんとなく感じている。

もし、他にも、私と同じような人がいるのだったら。
詩や文を書く人、読む人、うたをうたう人、聴く人、そのうちの何人かが、私みたいな人であるなら。
私はその人の手を借りながら、その人を少し救える可能性がある。
私は読まれることで救われている。読むことで救われている。だったら、私が読むことも、誰かのほんの少しの救いに変わるかもしれない。

しかし、まぁ、他の人も同じかもしれないというこの予想が正しければ、それはそれでなんてかなしいことだろうかと思う。
世界が、それだけ、毒や刃に溢れているということだ。そういう世界に、生きているということだ。
ほんとうのものを探しながら、彷徨う。
少しずつ、見つけて、拾って、解毒する。見つけて、溶かして、手当する。
そんな苦しい旅路に、私たちはいるということなのだ。
それはいいことなのか、悪いことなのか。

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なんてことを今日もぐるぐると考えている。
月曜の朝からこんなことをアップするのも気が引けるが、書いておかないとこのまま仕事中も考え続けてしまいそうな気がしたのでアップする。

今日も詩を読む。詩を書く。うたをうたう。うたを聴く。noteを書く。noteを読む。
自分を解毒しながら、ありがとうの意味を込めてスキを押す。
それが同時に誰かの解毒剤や中和剤になるなら、自己中でも意味があることだと思いながら。

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