奨学金の話

私は大学院の二年間、日本学生支援機構(JASSO)の第一種奨学金(無利子)を受けていた。
月約8万円を2年間で、計200万の借金である。
期間が終わる頃に出した免除の申請が通り、私は半額免除を受けて借金は100万円になった。
返済期間もそのおかげで半分で済み、約8年で完済した。

免除申請には教員の推薦が必要で、私のときは、その年の推薦を出せるのは研究室で1人と決まっているようだった。(おそらく学内の内規と思われる)
学部2年生からドクターまでいる集団の中で、1人。
たまたま他に申請をする人がなく、運良く免除申請を出すことができた。
担当教員は、博士後期課程まで進むわけでもなかった私に、貴重な1枠と事務作業の労力を使って推薦書を書いてくださった。

そう。私は、教職に就くわけでも、ドクターに進むわけでも、公務員や、人命を救ったり国際交流に貢献するような職に就くわけでもなかった。
私はただ私個人のために大学院に進学し、学術的な成果は修士論文と1回の学会発表ぐらいで、成果を広く世に還元してもいない。
傍目には学んだこととは全く関係がない(かのようにみえる)職に就き、しかもその職は結果論ではあるが3年もたずに辞めている。

私は公金でいわば借金の返済をしてもらった身だ。
こんな私をフリーライダーと呼ぶ人もあるだろう。
公金を使った以上、無駄にならないように、皆の役に立つように生きねばならないのに、と。

でも、ふと思うのだ。
無駄って何だろうか。

私は国益になる仕事をする交換条件として奨学金を求めたのではなかったはずだった。
もう少し勉強を続け、研究をしたいと思いながら、しかしそのように、自分の望むようにするには資金が不足していたからであって、生きたいように生きるためだった。
免除の申請をして通ったのは、貸しがいがあったと思われる程度にはその当時大学院生活を全うできたからであって、将来に渡って役に立つことを期待されてではなかったように思うのだ。

それで間違っていないと思いたい。

国益というのは、国益になる仕事に就いていることではなく、一人ひとりが自分の望むようにしあわせに生きられていたら、それこそが国益なんじゃないかと思う。
就職は大学の成果物のように見られがちだが、どこで何をするかということより、その人はしあわせに生きられているのかということを、ほんとうは追いかけてみるべきなんじゃないかと思う。

だから、どこでどういう職に就いてどのように生きるのかをコントロールするためではなく、今とこれからをしあわせに生きてもらうために、奨学金はあってほしい。

地元定着のために将来を縛るたぐいの奨学金を見ると、ついそのように思ってしまう。

この記事が参加している募集

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?