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限り無い攣を束ねて〈ep2-3〉

   Ep2-3

 仕事が終わると南雲愛は着替えて、職場である病院から駅へと歩いた。看護用の白衣は彼女を何かを守護するものに変えていたが、私服の彼女は地味で至って普通の女性である。便宜的に着ているセーターとジーンズはやや色褪せていて、其処に女性的な華やかさはない。寧ろ、彼女は女性が持つキラキラとした幻想の様なものを嫌っている様にも見える。雨は相変わらず冷たく、一定で、何処か不気味だ。
 「南雲さん」駅の近くの繁華街、と云ってもそれは大変に侘しい光景であるが、に近い路上でその声は彼女を呼んだ。大きくは無いが妙に通る声で、トーンは低い。大人びてはいないが、声の芯がしっかりしていて響くのだ。
 「どなたですか?」南雲愛は尋ねた。
 「西城戀と申します。成山さんの友人です」
 「ああ、こんばんは。先程御見掛けしました。何か御用でしょうか?」
 「用と云う訳では御座いません。少し、御茶でも如何かと思って」
 御茶?南雲愛は思った。
 医療関係者は患者とその関係者に対して妙な警戒心を抱いている。彼等は客であり、利用者であり、クレームを発するリスクでもある。妙な金を受け取って不正と疑われる恐れもある。然し、一日の疲れの中見る戀の姿は、南雲愛にとってこの上なく輝いて見えた。
 この人は丸で現実を生きていないかの様に美しい、彼女は思った。男に媚びている様な輝きとは少し異なる。彼女の輝きは男に媚びるには明る過ぎるし、リアルだ。大抵の男は引け目を感じる。私の日常には彼女の様な人は居ない。
 「構いませんけど、患者さんの御話などは出来ませんよ」南雲愛は云った。
 「ええ、飽く迄個人的に御話ししたいだけです」戀は云った。
 二人は余り洒落ているとは云えないファミリーレストランを見付けて、其処に這入って行った。そして、戀の要望から喫煙席に座った。席に座ると、戀はタバコを出して、それに上品に火を付け、煙を吸い込んだ。店員が来るとドリンクバーを注文した。南雲愛もそれに準じだ。二人ともコーヒーを取って来て、再び席に付いた。南雲愛も自分のタバコを出して、それにソソクサと火を付けた。
 「タバコ吸われるんですか」戀は尋ねた。
 「ええ、時々、この仕事をしているとあけっぴろげには吸えないですが、やめる事も出来ません。神経を使う仕事です」南雲愛は云った。
 「お察しします」
 「西城さんは成山さんの御友達と云う事ですが、どの様な御友達なのですか?」
 「個人的な御話になりますね。それは医療機関が責務とするプライバシーに触れたりしないのですか?」
 「勿論、触れない範囲で。世間話ですから」
 「私と成山日葵さんを結び付けるのはセックスです。私と彼女が交わっている訳ではありません。彼女の要望から、性的な刺激を提供しました。その御縁です」戀は微笑して云った。
 南雲愛は首を傾げ、彼女の淀み無くも大きく力強い瞳を見て思った。どうして、この人はそんな個人的な話を持ち出すのだろう。仮に、そうであってもそれは避けて、或いは濁して応えれば良いのではないか。
 「セクシャルな問題は私にとっては避けられません。私自身がセクシャルな仕事をしている訳ですから、それを濁して御話は出来ません」戀は云った。「でも、日葵さんとは普通の交流もしています。私が出演したポルノを彼女が見て、気に入って頂き、性的なサービスを提供した後、交流が続いていると云うべきでしょうか」
 「あなたは、AV女優さん、とかですか?」
 「まあ、同じ様なものです。細かくは申しませんが、やっている事は同じですね。はい」
 「その西城さんが私と御話がしたいとか?」
 「勿論、世間話です。日葵さんの待遇を良くして下さい、等とは申しません。そう、例えば、患者さんの中で、男性の方々はマスターベーションをされるのでしょうか?院内で」 
 「どうでしょう、デリケートな問題なので、何とも申し上げられません」
 「今日、日葵さんに伺った限りでは、彼女は勝手に処理しているみたいです」
 「仮に、患者さんがそう云う事をしていたら、許容出来る範囲で、見なかった事にすると思います。健康な人間なら致し方が無い事なので」
 「致し方が無い」戀は苦笑して云った。「そうですね、致し方がありません。でも、患者ですから健康ではありません。或いは、健常者ではありません」
 「ですから、見なかった事にします」
 「あの病院は男女区分されていませんね。男性病棟、女性病棟で分かれていない。それは患者同士のセックスに付いて前提として考えていると云う事でしょうか?」戀は眼を開き彼女の瞳を覗く様に尋ねた。
 「一般的な入院でも男女の区別はありません。患者さんの行動は基本的に許容範囲で認められています。性行為に付いて規定はありません。ですが、一般的なモラルに従って云うなら、それは逸脱した行いとして見られるでしょう。両者の間に同意があった場合でも、場合によっては退院して頂く事もあるかと思います」
 戀は微笑した。「模範的ですね」
 「そうありたいと思っています」
 「でも、性的衝動とはそもそも逸脱だと思いませんか?」
 「規範的なものがあると、逸脱する、と云う事でしょうか?」
 「いえ、そもそも倫理の成立が不可能、と云う事です」
 「意味が分かりません」
 「ドゥルーズは『近親相姦は如何なる形でも不可能である』と述べています」
 「そういう難しい御話は良く判りません」
 「話を変えましょう。あなた方は患者の為に医療をなさっているのでしょうか?或いは社会が求める倫理的規範の為に精神障害者を生贄にしているのでしょうか?」
 「有体な精神医療への批判ですね。確かに、精神病院はその成り立ちから社会的な位置付けを有しています。隔離して、人と接する事を禁じられるのは精神病患者と囚人が主です。後は伝染病等ですか。ですが、それは成り立ちに過ぎません。現代ではより科学的なアプローチで接しています。適切な治療と処置、迅速な回復を目指してシステムとして機能しています。患者さんの早期回復は私達の願いです」
 「別に、此処で精神医療の欺瞞を暴きたいとは私は考えません。ただ、当事者が如何なる自覚で接しているのか、興味があるだけです」
 「でしたら、今、もう申し上げた通りです」
 ああ、面倒なクレーマーと出くわした、南雲愛は思った。そもそも私は云い争いやディベートが嫌いなのだ。決まりきった事を云えば良いだけなのだが、突き付けられる言葉の刃はやるせない。どうせ相手は此方の主張に耳を傾けないのだから。
 「南雲さんは普段セックスはどうされていますか?」
 「私、ですか?」
 「ええ、若く美しい一般的な女性です」
 「そんな事、言葉に出して云う様な事ではありません」
 「私には二人の夫がいます。一人は年上、一人は未成年で、戸籍上は養子としています。私は二人の夫と主にセックスをしています。私は生理不順なども無いので、ほぼ毎日と云う所でしょうか。生理中はローションなどで快適性を補完します。他にも気分でセックスフレンドと交わります。時々、自慰行為もします。セックスをした後男性の隣で自慰をしたりします。避妊ピルを常用していて、避妊リングも付けています。セックスフレンドと交わる時はコンドームを使用しています」
 南雲愛は混乱した。急に赤の他人が自分の赤裸々なセックスライフを話し出し、それが極めて逸脱したものであったからである。
 「あの、どうして?」南雲愛は尋ねた。
 「どうして?とは?」
 「どうして、そんな話を私にするのですか。それに、聞く限りとても逸脱している様に思えます。二人の夫?一方未成年?普通じゃありません。とても倫理に反している様に思えます」
 「ですから、倫理は不成立です。非在的な概念の不成立性とは、成立以前にそれと反するものが規範として成立していて、此処で云うのは倫理に反するも、つまり不倫ですが、その不倫の成立無くして倫理は成立しません。そして、人の生来の欲求は侵犯し、逸脱します。寧ろ、倫理的な禁忌とは逸脱の為の快楽器官であり、逸脱の為の強い動機として在るだけなのです。ですが、逸脱してしまえば、そこにあるのは禁忌ではありません。ただの異性、或いは性的なパートナーです」
 「そんな事を話したいのですか?」
 「いいえ、私はあなたのセックスに付いてお尋ねしただけです。礼儀上、自分の性生活を話しました」
 「決まった人はいません」
 「それは、気分次第で変えている、と云う事ですか?」
 「いえ、恋人がいないだけです。まず、私はお付き合いしている人とします。ですが、今はいないと云うだけです」
 「つまり、恒常的に長期間セックスをしていない、と云う事ですか」
 「そうですね」
 「セックスがしたいと思う事はありませんか?」
 「どうでしょう?忙しくって余り考えません」
 「ああ、寂しいと感じる事はあるけれど、リスクを冒してまで解消する欲求は無い、と云う事でしょうか?」
 「まあ、そう云う所でしょうか」
 「私は時々判らなくなります。どうして、女性は性欲を抑圧されて生きるのでしょう?」
 「私は抑圧されてなどいません」
 「あなたは日常的に自慰行為をしますか?」
 「どうでしょう?気が向いたら?」
 「女性の性欲の平均値など意味がありません。旺盛であろうと希薄であろうと、それは個体差です。ですが、個体差と云うには余りにも私とあなたでは違います。それは個別のユニークな性質の違いとは申せません」
 「私のセクシャリティに御意見でもあるのですか?」
 「いえ、在るのは興味です。何があなたの在り方を説得して、正当化しているのでしょう?現代は女性の性的価値が高い時代です。と云うより、歴史上から女性の性的価値が低かった時代と云うものがあるのか、意見の分かれる所でしょうが。少なくとも、今、街に出て、何人かの男性に声を掛けて、一夜の相手を探す事は、あなたにとって難しい事ではないでしょう。ですが、其処には心理的な障壁が存在します。何と申しましょうか。折角高い価値があるものを態々手放す必要がない、と云う様な心象、ヴァージニティなのでしょうか。無論、女性側には大きなリスクがあります。例えば、妊娠、病気、そして、密室空間を求めるが故に暴力とも接します。それ等は、社会や家族から言葉ならぬ脅威として刷り込まれています。そして、それは実在します。ですから、自分の欲求を無い事にして過ごすやり方は、或る種理にかなった思考停止に思えます。そうして無視出来る欲求なら確かにありかも知れません。ですが、抑圧と逸脱は常にセットです。私が知る限り抑圧された欲求とは別の姿で何かを侵犯します。例えば、機能不全家族が良い例でしょう。精神的に共依存関係にある家族です。親は子を抑圧し、精神的なリンチに貶めますが決して手放したりしません。嘗て、精神障害者が置かれていた私宅監置も同じ様な状況ですね。他にも依存的状況や物質に対する依存もあるでしょう。そうして出来上がっている巨大なシステムが国家として横たわっています。小さな呪いが大きく巨大な呪いに育て上げられ、成熟して、街のど真ん中で横たわっています。私はそれが気に入らないのです」
 「私の性的パートナーと国家が関係しているとでも云いたいのですか?」
 「私は国家や政府と云う機関に対しては、個人的に攻撃的な、それを否定する考えを持っています。ですが、それを抜きにして見ても、云えるでしょう。あなたが恋をしていない事、誰かを愛さない事、性欲を強く感じエロティズムに浸り、味わっていない事は、好意的に受け入れられない事柄です」
 「私の勝手でしょう」南雲愛は激昂して云った。
 「ええ、勿論。何にでも空白期間はあるものです。一つの発情期から次の発情期にクールタイムがあると云い張る主張を私は否定しません。ですが、あなたは恒常的に性的パートナーを持っていない、とおっしゃられました。それは私の様な官能的前衛作家にとって黙認出来ない事です」
 「あなたも頭がおかしいんじゃないの?」
 「いいえ、私こそもっとも頭がおかしい人間です。では、今から私を精神病院に措置入院させますか?私はあなたとコミュニケーションを取っているだけですよ」
 「確かに、誰も傷付けていないです。でも、異常な物云いで人を責め立て、侵害しています」
 「私は挑発して侵犯しているだけです。侵害はしていません」
 「言葉の綾です」
 「あなたこそコミュニケーションを拒絶していませんか?別に、私はあなたをレイプしようとしている訳ではありません。価値観を問うているだけです。そして、感情的になる事を私は責めません。感情こそコミュニケートされるべきものであるからです。ですが、あなたの感情を、その怒りを、明確に理解出来る人は今の所いないでしょう。私は、抑圧と云う言葉でその怒りの尻尾を踏みましたが、まだ、感情の一端に過ぎません。あなたはそうやって感情を伝える相手がいますか?」
 「いませんよ、云った通り」
 「私が踏んだ地雷は何でしょう?乙女の貞淑ですか?あなたのプライドですか?或いは地域的風習でしょうか?確かにデリケートな問題に短時間で私は踏み込んでいます。ですが、それは何ですか?」 
 南雲愛は一瞬黙って、話し始めた。「時々、物凄く寂しい。それが孤独だとはわかるのですが、其処に埋め込まれるものが何なのか見当が付かない時があります。家族?夫や子供?何だが馬鹿みたい。私がテレビ映りの良い家庭を持って孤独が癒える何て、馬鹿らしくて受け入れられない」
 「愛のヴィジョンがないのですね」
 「誰かに恋をして、愛し合って、結婚するとして、その先に茶番劇の様なデジャビュがあると思うと悪寒がする。吐き気がして来る。でも、多分、仕方なく受け入れると思う、それが女の役割で、宿命と云う呪いだとしても。でも、今は、抵抗したいの。どんな陳腐な云い訳に聞こえようと、私にも尊厳が在ると自分に云い聞かせたいの」
 「あなたには尊厳があります。ですが、それは空約束に固執する権利ではありません。私の出演作と名刺を差し上げます。連絡をくだされば、あなたの尊厳の穴埋めのお役に立てるかと思います」
 「ファウストに登場する悪魔みたい」
 「御尤も」戀は微笑して云った。その様に云うと戀は立ち去った。

 帰宅した南雲愛は疲れた体を横にした。
 上の階から不気味な轟音が聞こえて来る。スピーカーでノイズをループさせているのだろう、生理的に受け入れられない音が延々と続いている。半年は続いているだろうか?時には今日の様に二十四時間続く。恐らく、周りの住人にはノイローゼになるだろう。時々、奇声が聞こえる。私はそれを聞いて、此処の所続いている歯の治療について思う。治療はいいけれど、何時かすべての歯が消えてなくなりそうに思える、南雲愛は自室の天井を眺めて思った。人を脅迫して、威圧して、大きな音や不快な行いで女をものにした気になる男もいる。そういう不躾な男をぶち込むには暴力が必要で、それは女子供をも躾ようとする、見事なまでの袋小路の完成だ。
 一概には云えないが、この国のコミュニケーションはリスクを恐れる傾向がある。自由より規範を重んじる。規制や禁忌、常識から逸脱した欲求を自己としても、それを客観的に認識する自己と云う他者としても、容認出来ない。だから、恋愛にも積極的では無い。君を抱きたい、とは云えず、デートをする必然性を捜す。女性にしてもそうだ、なら仕方が無い、と思える云い訳を待っている。どうして?言語的コミュニケーションとは信頼や合議的積極性を前提としている。話し合って、同意出来れば試しにそれをやる、失敗しても良い範囲で、成功したら儲けもの、トライアンドエラーだ。だが、規範を守ると云うのはリスクを除外してこの世から消し去りたいと云う願いだろう。いうならば、極端な保身の中ではコミュニケーションは概念として成立しない。でも、これは私の思い込みなのかも知れない。
 彼女はベッドに横になり、タバコに火を付けて、早々にそれを灰にした。《頭の中はすっきりと晴れているのに、何も考えられない》彼女は御湯を沸かし、カップラーメンに湯を注ぎ、騒音を聞きながらそれを食べた。彼女の食事は驚くほど早く、内容は粗悪である。然し、彼女は食事を排泄以上に考える事が出来ない。
 何時だったか、隣の部屋で男女がセックスをしていて、一晩中声が止まなかった事がある、彼女は食事を終えて再びタバコを吸いながら思った。彼等だって周囲の人間に聞かせたくなかったかも知れない。然し、それは激しく止めどない交わりだった。多分、そういうものも在るのだろう。だが、必要も無いのにセックスをする人間が、私には信じられない。いや、そもそも、その様な人がいる事を上手く認識出来ない。男達は毎日のように精液を吐き、飽きる事が無い。でも、女性は別だ。制御出来ない欲望と云う程、性欲を感じない。《いや、君は自分がそうあって欲しいと思うだけだ》セックスに関するリスクを刷り込まれたからなのか、私の性欲が希薄なのか、或いは個人差が激しいものなのか、私には判らない。でも、私は自らセックスを望んだ事が無いし、求めた事はない。《いや、求めた事が無い様に現在を強制しているのが君だ》応じる事は少なからず快楽だ。求められ、対価を受け取り、気分次第で応じる。相手の対応が不味ければそれまでだ。その様な駆け引きが延々と続いて行く。それが色恋だ。では、愛とはなんだろう?欲求だろうか?義務だろうか?《或いは自問しない簡潔な概念に辿り着いた漂流した誰かの叫び声だろうか》考えるな、考えるな、考えると頭がおかしくなる。
 彼女は度々タバコに火を付けながら安定剤と睡眠薬をかっ喰らい、シャワーも浴びず、着替えもしないでベッドに入った。そして、ベッドにノートパソコンを載せ、戀から貰ったDVDを再生して、それをぼんやりと見始めた。女が狂った様にセックスを求める様子は彼女には異様に見える。
 寂しい日常が続く、彼女は思った。自分が求めているものも判らず、誰に求められているのかも判らない。退屈を埋める為に社会に参加して、貧しさを恐れて、職に縋りつく、この有り触れた私を見下せる人間がいるだろうか?《かく云う君こそが君を見下し、君を惨めさに貶めている。君は自分の至らなさに気付きながら忘れている、だから渇くのだ、焦るのだ、虚無を焦がす程自らを蔑むのだ》
 男は何故、女性のパーソナリティーを画一的〈女〉として語りたがるのだろう?ユングの仮説によると男性のアニマは単一的なものであるのに対して、女性が持つアニムスは多様であるのだと云う。如何なる仮面で見られるのか、それは人格形成や社会的な振る舞いに大きく影響するのだろうか?
精神障害及び知的障害者でも同じだ。一方の性のみの精神病棟では不衛生な振る舞いや暴力的言動を周囲が抑制出来ないが、男女共同の病棟では或る程度の抑制が現われる。異性からの視線が社会的な振る舞いや協調性に影響するのだろう。一方、女性のみの病棟に男性の患者を入れるとどうなるのだろう?仮説通りなら、男性は大勢の女性を単一的に見て、女性は一人の男性を多面的に見るのだろうか?恐らく、そうではないだろう。ただ、気まずい空気が流れるだけだ。

 精神病院に勤める事は、他の疾患を見るのとは根源的に異なるものを感じさせられる。看護の無力感は同じだが、それだけではなく、私達は主観性でしか病を測れない。目の前にいる、明らかに常軌を逸脱した患者が、如何なる問題でその様な状態にいるのか、見当も付かない。統計的な傾向は尺度にはなるが、治療を行使する医師側の主観が方針を決定付け反証の材料はない。医療ミスも、精神科では往々にしてある。統合失調症の治療をしていた患者が、実はうつ病だった、パーソナリティー障害だった、と云う例がごまんとある。それら誤診、いや誤診にも数えないそれに費やされた時間と労力と治療費は、概ね無かった事にされる。《だが、誰かが医療費として支払い一部が私の口座に振り込まれる》内科や外科では在り得ないだろう。そして、精神病院にはもう一つの側面がある。それは〈正気〉と云うものを逆説的に作り出している、と云う性質だ。監獄が逆説的に社会性や規範を作り出しているのと同じ事、つまり見せしめである。《丸で、『近親相姦の禁』によってなされた家系図の様に、理性は系譜立てられた秩序で縛する辺獄の様だ》
 私がセックスに求める事は《さっさと終わらせてくれ》だった。喘ぎ声を出すのも体を捩じるのも、相手がいくのを手伝うのも、正直退屈で仕方が無かった。巡り合わせだろうか?いや、私体質も問題かもしれない。
   ×
 偏屈かも知れない。私はビッチでもヤリマンでも無い少女だった。逆に云えば淫乱である事を恐れ、それになる事を恥じらい続ける女だった。だが、丸で何かから追い出されるかの様に、或る日セックスをしなければならない日がやって来る。《そして、そろそろ子供を産みなさい、と云う強迫もやって来る》度々差し出されるセクハラと区別出来ない誘いに、諦める様に手を差し伸べて、快楽に見覚めた演技を誰かに向かってやり始める。私のセックスは〈やられた〉ものであり、〈やった〉ものではない。《女は何歳の時に誰々にやられる》と云う呪いの中で泳がされている。
 彼女は格子の中からその空を眺めていた。葉が生えたてのプラタナスは冷たい雨に打たれ、ぼやけた地平線の上には原子力発電所が煙を吹いて影になっている、もう、夜中だと云うのに。隔離病室は何もかもが簡易的だ。露出したトイレは不衛生で、黴と小便と吐物の臭いが立ち込めている。つんとする酸味のある刺激臭であるが、混濁して得体の知れないものになっている。ベッドの上には浴衣姿の拘束されているのは北上冬見だ。それを少年ガラテアが見詰めている。ベッドは部屋の中心に置かれている。どう考えても収まりが悪く、寝心地も悪そうであるが、周囲に医療器具を置く可能性を考えての事だろう。申し訳程度の点滴が彼に繋がれて、暴れない様に頑丈なベルトで固定されている。
 閉鎖病棟や隔離室と云うものに法的な根拠があると云う考えを持った人が居るが、そもそも何かの根拠上に精神状態を判定出来ない中で、規範たるものは無い。つまり患者からしたら理不尽極まりない措置であり強制であるが、それを行使するものは根拠を有さないのだ。この様な所に閉じ込められて、正気で居られる方が異常だと私も思うが、狂気に対する同情は微塵も無い。理性は鉄槌を振り下ろす鋼鉄の処女と同相なのだ。
 北上冬見は不意に目を覚まし、周囲の状況が飲み込めず狼狽して叫んだ。「誰か。助けて!誰か、助けて」
 誰が助けると云うのだろう、南雲愛は思った。何者かが御前を助けないと強い意志を持たない限りこの様な状況は作られないのだが、発言と云うのは奇妙なものだ。《だが、君は不意に、彼を見ている君自身が閉じ込められている事に気付く》あれ?私は看護師なのにどうして閉じ込められているのだろう?彼を見張る必要などはない。彼は拘束具で固定され、トイレの必要も無い様にオムツを履かされ、点滴で食事の必要もないのだ。看護する必要がない。どうして私が内側に居るのだ?
 「誰か。助けて」北川冬見は声を枯らして叫び回っている。無論、扉の外側には病室が並んでいるので沢山の患者がその声を聞いている。
 その声を聞いている南雲愛は、裸で、靴すら履かず彼の頭側の方で立っている。それを見ながら少年ガラテアは〈星のカケラ〉を口にした。
 どうして、私は裸なのだろう?彼女は思った。
 やがて、彼の声に誰かが反応したのか、鉄製の扉の格子に白い手が現われた。
 「大丈夫ですか?」女が云った。女は暗がりの中彼を見て心配している様子である。
 「ああ、助けて、御願いです。助けて」
 「誰から助けるのですか?」女は尋ねた。
 「だって、こんな部屋に閉じ込められるのは嫌です」
 「どうしてですか?閉じ込められた部屋から出ても閉じ込められていますよ」
 「なら、其処から出して下さい」
 「此処から出て自由になりたいのですか?」女は尋ねた。「寂しいのですか?」
 「寂しいです。辛いです」北上は泣き叫ぶ様に云った。
 すると、不意に扉の施錠が解かれ、女が入って来て、扉を閉じて、彼の元へ歩いて来た。女は桃色のネグリジェを着た。ボブカットの美しい人で、目元は何処と無くトロリとして眠そうだった。
 成山日葵だ、南雲愛は思った。どうして彼女が鍵をもっているのだろう?彼女は患者だ。
 そして、日葵は裸姿で立っている南雲愛のつま先から顔までを撫でる様に見て、苦笑した。
 「此処から出られないなら、此処で楽しい事をしてもいいですよね」日葵は云った。
 「どうして、入って来るの?あなたは誰ですか?」
 「名前何て、どうでも宜しいではないですか。閉じ込められた部屋の閉じ込められた二人です。閉じ込められて辛いなら、それを忘れてしまいましょう」
 「いや、これを解いて、此処から出して下さい」北上は云った。
 「あなたは、昼間、酷く錯乱していました。誰かと気持ちが良い事をして興奮されていたのですね。とても素敵です。興奮して、我を忘れて、極まった気持ちが私には判ります。鎮静剤は気持ち良かったですか?」そして、彼女は彼の頭に跨った。
 掻き揚げられたスカートの下には白いオープン・クロッチの下着であった、下着の裂け目から女性器が露出している。大きな襞が股に沿って装飾されていて、全体はゴージャスな百合の様な印象である。黒く尖った陰毛が襞の隙間から飛び出し、赤く高揚している小陰唇は濡れて艶だっている。彼女はその下着を広げて、彼の口へ近付けた。「死を乞う様に舐めて下さい」
 彼は絶句した様子で黙った。
 彼女はそのままの姿勢で彼の浴衣を分けて、オムツを剥がし、そそり立った性器を露出させた。「秘密って楽しいですか?」日葵は尋ねた。
 「助けて」北川冬見は小さく云った。「助けて透けて見えない裸の君よ」
 日葵はネグリジェを脱いだ。そして、下着を見せ付ける様に南雲愛の方向へ振り返った。ブラジャーは乳首を隠していない半透明なオープンデザインで、色はショーツと同じく白である。やはり、大きく気高い百合をモチーフとしていて、百合の葉をモチーフとした装飾が所々にある。両手を上げると彼女の腋の下の伸び始めた腋毛が見える。彼女は彼の勃起した性器に跨り、それを自らの内へ滑り込ませ、パンティの割れ目からクリトリスを指で探り、南雲愛を見ながら波打ち始めた。

 《闇に生え変わる虚しさ、薄汚れた視界で、
 踏み外した無邪気さが渋滞を巻き起こす。
 無関心は不可避だ、つまりは、醜態を暴かれた肉体は、
 暗礁に置かれた深海魚の如く、無価値で不確かだ。
 感傷も反抗も寛容さも無く、ユラリユラリ、
 不埒な鎖を蹴散らしたプラチナの椿が落ちて行く。

 死を乞う火の鳥の体が捻じれながら脱殻し、
 紐解く色恋の裸は全くの剥き出しだ。
 悪霊を焼き払う欲望は薄氷を
 突き刺し、詩を問う愛しきはさよならを詠われない》

 彼が射精すると日葵は精液を体内から搔きだし彼の浴衣で拭った。そして、彼のペニスを握り、南雲愛を見詰めながら静かに自慰を始めた。南雲愛は激しく興奮していた。
 「さあ、一緒に」日葵は云った。「あなたはとても捻じれていて、此処は秘密の部屋だから」

 《浮き上がる雑踏、付き纏う葛藤、殺到する雑草の種が、
 あっと云う間に発酵する舞踊を逃れ、
 落ち欠ける角砂糖が砕けている交差点の逆光を、
 放射状に滑降をして火と花よ、咲きたまえ。
 感動を取り敢えず舐め合う頭上で、
 人肌と雨は媚びられず、繰り返し付き纏い発光した。

 一時の無花果の肋が途切れながら発達し、
 導く血液の魚は錯覚の嘴か?
 拡張は混ざり合う浴槽を、
 抜け出し、火を喰らう愛しきは軽やかな詠われ合い》

 南雲愛は呆然としながら、自分の女性器を磨いている。《見られたくないのに、触りたくないのに、あなたはその限界に際限なく近付いてしまう》

 結婚と云う名の身売りとか、
 排他的売女になるには義務教育を受け過ぎた。
 怨恨と対価を生み過ぎた蜜月の、
 能率的喪失の硬質な予兆が伝承する胡蝶の血縁は?
 誰にも唄われない火の薔薇は、
 冗長な練乳と朽ちて行く。

 火と舞う居心地の宝は千切れながら圧迫し、
 血を飲む彩りの彼方は活発な雪待だ。
 白桃は絡み合う白鳥と憑神、
 詩を飲む愛しきはさよならと詠われない。

 死を乞う火の鳥を一思いに殺してくれ》

 男は叫び、或る一瞬から静かになった、そして、直立している女は静かに絶頂に達した。
   ×
 部屋は既に明るかった。上の階からは変わらず騒音が聞こえていて、間も無く昼になろうとしていた。南雲愛はパソコンを出したまま窮屈そうに丸まっていて、下着姿で呆然としている。パンティに手を伸ばすとそれは未だ湿っていて、彼女をもう一度呼んでいた。
 彼女は半裸のまま、昨日受け取った名刺を出し、戀のホームページを検索し、閲覧した。其処には奇妙なランジェリー〈恋月〉が載せられていて、クレジット支払いで購入出来る仕組みになっていた。
 コットンを主とした素材の陰毛をプリントしたショーツ、花をモチーフとしたオープンクロッチショーツも在った。夢の中で日葵が着ていた物は〈カサブランカ〉と云う呼称で、素材は主にシルクとある、ランジェリーの割に高価だ。他に、八重桜は襞の部分が半透明のピンクで、ウエストは茶色だ。紫陽花はモザイクの様な四角で、襞の無い半透明なオープンショーツである。彼岸花は放射線状の紐のみの下着で、クリスマスローズは幾何学的模様だ。
 南雲愛は混乱した。どうして、夢の中で見たものが在るのだろう?或いはこれはデジャビュだろうか?そして、どうしてこんなにそそられるのだろう。とても日常的には履けない、使い道のない下着を買う事にどの様な快楽があるだろう。
 あの女には嫌悪感しか覚えない。でも、このきらめく感情は、むず痒い感覚は何だろう?
 《でも、此処は秘密の部屋、あなたは有り余る自由で狂ってよいのです》

ep3-1へ続く

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