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限り無い攣を束ねて〈5〉

Ep5〈エピローグ〉

 《あなたの一歩先の景色が見てみたかった。あなたの景色を見る前にあなたの話を聞かなければならない、だが、あなたの物語は常に何かに塗り潰されている》
 夜なのに妙に明るい空が雪を降らしている。積り始めたそれは夜の明りを受けて輝き、人々の足跡を点々と残し、人間の影を鋼鉄のマントの様に表層に留めている。音ははっきりと聞こえ、辺りは眩しい程であるが、人影が無い。日葵はサイズの合わないパンツに白いコートを着て赤いマフラーを巻いている。化粧も無く彩も無く、渇いた風が彼女の髪を揺らしている。肌は際立って白く、頬は赤いが瞳はぼんやりとしていて、おぼつかない様子だ。衣類は弁護人が持って来た物で、便宜的なものである。彼女はポケットの中に二枚の手紙を持っている。一通は離婚届、其処には彼女の名が記されて、郵送の為の切手も張られている。もう一通は彼女に弁護士をはからった戀からの手紙である。それは封が空けられ、何度も読み返された跡が在る。
 《もう何もない、あなたは思った。何が身を滅ぼしたのか、もう思い出せない。何を守っていたのか、何から逃げていたのか、何を愛していたのか、何を憎んでいたのか、どちらにせよ何処に行っても何処にも行けず、何処に行っても何も出来ないだろう。何処にも行けないと云う事は自由なのだろうか?何処にも居場所が無いと云う事は自由なのだろうか?恥じらうべき記憶が累積しても体は重くならない、丸で存在が軽薄な軽さであるかの様に。誰が何を弁明すると云うのだろう?あなたの何を、あなた自身で弁解出来ると云うのだろう?それでも、人は釈放され、それでも人は退院する。あなたは何者でも無かった、何者でも無かったあなたが底から転がり落ちたのだ》
 《もうどうでもいい、だが、どうでもいい。一回りして元に戻っただけだ》
 彼女は駅前のポストに、丁寧に離婚届を入れ、戀からの手紙を開いた。其処には手書きで器用に描かれた地図がある。駅から数分とあるその道のりは、彼女に絶望的な迷路を思わせ、終わり無き袋小路を感じさせた。
 《何もない、でも、何もないと云う事は素晴らしい事だ。何処にも帰れない、でも、何処にでも行けると云う事なのだろうか?何も出来ない、でも、何もしていない自分は最初から在った。想像力の足枷と、奇妙な使命感が失われただけだ。だが、あなたは何も思わない》
 日葵は傘を広げ地図に書いてあるカフェへと歩き始めた。重たい鉛の様な影が接面に広がり、雪はサラサラと傘に触れる。一歩踏み出すと、ミシっと音が鳴り、その後に風の音が聞こえる。彼女の空っぽの魂に風が吹き抜ける様だ。だが、日葵は奇妙な高揚を感じていた。
 《でも、どうしてだろう?あなたは誰かを愛したい。でも、どうしてだろう?あなたは今セックスがしたいと思う。寂しさを癒して欲しい訳では無い。ただ訳も無く誰かと抱き合いたいだけだ。ああ、どうしてだろう?でも、本当に誰かが必要なのだろうか?あなたには記憶と云う快楽がある。ミシ、ミシ》
 「日葵さん?」前方からやってきた戀は日葵を見て微笑んでいる。戀は濃いグリーンのコートを着て青い傘を差していた。
 「戀さん?」
 「迷うかも知れないと思って、御店から出て来たのです。さあ、一緒に行きましょう」
 「ねえ、戀さん。私、何処にも行く場所が無いのです」
 「知っています」
 「何処に行けば良いのでしょう?」
 「私と一緒に働いて下さい」
 「何をすれば良いのですか?」
 「そんなの、今から考えれば良い事です」
 《今から考える、あなたは不思議に思う》
 「今、あなたは何をしたいですか?」戀は尋ねた。
 「男性とセックスがしたいです」
 戀は笑った。「なるほど。そうですね。大丈夫、それは何とかなりますよ」
 「どうして、何とかなるのですか?」
 「あなたが美しいからです。あなたが魅力的だからです。或いは、あなたが自由だからです。ですが、それが究極の快楽になるか私にもわかりません。もしかしたらがっかりするかも知れません。でも、あなたが誰かを愛したら、そこに奇妙な興奮と高揚が咲くでしょう」
 「どうしてかしら?あなたはとても私に親切にしてくれますね」日葵は微笑した。
 戀は不意に立ち止まった。
 ミシ、日葵の足音が一歩先へ行き、彼女は振り返った。
 「ずっとそう思っていたのですか?」戀は尋ねた。
 「ええ。あなたが私に生きる快楽を教え、前に進めてくれたのです」
 「確かに、あなたは前に進みましたね」
 《あなた達は雪道を歩みながらいやらしい話を楽しげにする。だが、其処には何らかの物語があり、何等かのイメージがあり、あらん限りの情熱がある。それが誰にも伝わらないものだとして、それは確かに在るものなのだろう》
 二人はゆっくりと進み、カフェ宿り木がある袋小路へと辿り着いた。

 扉を開けた先に居たのは着物を着た婦人である。色艶が美しく、生きいきとしているが日葵よりも年上に見える。彼女は扉の前で静止している日葵を見て、微笑した。
 「日葵さん、さあ、這入って」拿梛は云った。
 「拿梛さん」
 床は古い建物を思わせるフローリングで、机は作りがしっかりした物である。重そうな椅子が何対も置かれていて、机の上には花のアレンジが置かれていた。どれも今日水揚げした様に光っている。奥のカウンターからコーヒーの匂いが漂っていて、クラシックの音楽が流れている。ただ、特別な催しと云う訳でも無い。来客は普段通りの様子である。

 這入って来た女性が日葵である事を五月女真糸は知っていた。その姿は彼女にとって同級生の母親と云うもの以上だった。然し、明るく手を振って歓迎すると云うのも違うと思い、何も云わなかった。
 彼女が帰って来た、真糸は思った。

 店の二階に上がると、其処に南雲愛が座っていた。隣には縹と夫の東が座っている。
 「あの」日葵は尋ねた。「私はこれから何処に行けば良いのでしょう」
 「何処って?」縹は尋ねた。

 彼女はただ美しい、戀は思った。そして、誰も愛していない。だか、その胸には炎の薔薇を思わせる何かが宿っていて、きっと誰かを愛するだろう。理屈ではない、彼女の境遇は知っている。隅から隅までと云う訳でも無いが、概ね知っている。淫乱な痴女で、何処か世間知らずで、独り身で、孤独で、独創的で、狂っている。圧倒的だ、彼女が屈する姿を想像出来るだろうか?彼女は私にとっての自由だ。
 二階の席に座ると、正面に木村拿梛が座った。
 「さて、何から尋ねればいいのか?」
 「何からお話ししましょう」日葵は苦笑して云った。
   ×
 リンボの街に雪が降る。立ち並ぶアパートメントとビルの隙間から煙が昇り、人々は気配を殺している。街の向こうには巨大な森が見えて、背後には黒々とした海岸が冷たい海風を押している。誰かが夢に溺れて影から逃げているのだろうか、雪面には点々と足跡だけが見られる。足跡は途中で途絶え、その主の行方はわからない。芯を打つような静けさの中、かつて女神ピグマリオンだった女が、七色の紙飛行機が引くソリに乗って空中を駆けている。真白なドレスで、白いマフラーを靡かせ、黒く艶やかな髪の毛は伸縮する生き物の様だ。色めく顔立ちは白い肌だが、首から頬にかけてほんのりと赤い。時々睫毛の上に雪が付着するのだが、黒い瞳は瞬きを忘れたかのように泳いでいる。ほんのりと血走ったそれは薄っすらと涙を保ち、怒りとも憎しみとも見られない高まりを抱いてた。

 フブキと知る続き、
 すぐにも散る狂いの満ちる
 剣も朽ちる部類の月
 無類の傾きで緩い向日葵は凍てついてつる。

 髪の毛は秘密を含んでいて
 緩んで行く口付けは、今まさに、狂って行く。
 舞いの音は肺を止め、愛と燃える巴となり、
 街を超える風と影が、寒空に遠吠えを呼ぶ。

 ありのままで咲くならば、
 余りのマグマを針の穴に通すがいい。
 蛹の中に、更に泡立ちと絡み、
 わたくしの体は空白で語り出す。

 まっさらな雪の上を滑る
 錯覚は文(ふみ)と増える情熱
 わたくしの肌の中の快を
 あなたは決して知る事はないだろう。

 グラスに閉じられたシロツメクサは
 糸触れずも浮かず淡く紐解けるか?

 割れて散ったパノプティコンの破片が強風に乗ってあらゆる場所に散ってしまった。自分がが映り込んだ鏡が人々の目と心臓に突き刺さっている。もう一度集めなくては、女は必死になってソリを走らせている。
 《然し、まさか瞳と心臓に刺さるとはあなたは思いもしなかったでしょう。せめてお尻か掌に刺さってくれればあなたとしても喜びようがあったのに》
 ああ高まりよおだまり、女は雪に向かって云った。
 《だが、あれを心と瞳に刻み込まないとしたら、一体何を人に刺すと云うのだろう?あなたは鏡のカケラを集める。白く、美しいあなたのステップは星のカケラの様で、なめらかな肌を薄い光が照らし、様々な讃歌を受けて恥じらう。誰かが見るよりも貴ばれ、カケラを舐めるよりかっとばせ。駆け抜ける体は不滅の金字塔なのだ》

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