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人として。(雑感)

「人として」という言葉を使う事がある。
考えてみると、この言葉の使い道は多いなぁと感じた。

人として。という言葉は自分に使う場合と他人に使う場合がある。

「人としての道を外さぬよう、粉骨砕身の努力を致す所存で・・・」
これは自分に使う場合もあり、人に訓育する場合でもある。

「あなたね!それって人としてどうかと思うよ!?」
これは他者への攻撃で「人として」が「基本的に」みたいな形で
使われる言葉ですよね。

この「人として」という言葉を「人間として」と変化して使う場合もある。
ちょっと生物学的にも見える言葉だけれど、同じ意味合いを持ちますね。

「人としてどうなの!?」
「人間としてどうなの!?」
うん・・・・・・・・・。人間って言われたほうが、より動物的な、本能的な、
自分を意味指して言われてる感じがする。

「人としては好きだけど・・・。」
これは終わりな話だ。結句。もうそれ以上には何も無い( ´_ゝ`)

「人として好きってどういうこと!?」って、追い打ちを掛けるような望み
は全く無い。
この場合の「人として」というのは、物凄く広範な意味合いを持つと
思うんですね。物凄く広い広い。

こちらのほうが「人間としては好き」と言ったほうが、
「あぁ・・・そうか。ホモ・サピエンス的に好きなのね」などという、
もう諦めてもいいよ!って思う形に変換している( ´_ゝ`)

しかしこの「人として」という言葉。
その後に続く言葉によって、強制的であったり、独善的であったり、
はたまた広範囲の味気のない、無意味に近い意味を演出するものですね。

「私としてはいいけれど、それって人としてどうなん?」という、
もうここに至っては「意味が分からないんです。すいません。」と、
自らが謝ってしまってもいいかと思うほどの、難題な言葉も出てくる。

この「人として」という言葉。
そう、この言葉を広く繋ぐのは、やはり「人」という定義になるんだろう。
外面的、内面的、自分、他者、心の有り様。などなど。

これが「人というのは」になると、なんか説明しなくちゃいけないぞ。
ってなり、そこには浅深な答えを持ち出さなくちゃいけない。

けれど「人として」ってなると、言った側は人という定義が出来ている
から、何を言っても構わないという免罪符が出来上がってるようだね。

今日思った雑感。
こういうのを取り止めなく書くのも「人として」どうなのか?( ´_ゝ`)

ゆうさん


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