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良い人ばかりじゃなく、良い人にもなりきれない

心理的安全性とは一般的には組織論とか職場内でのコミュニケーションの枠組みで語られる言葉だと理解する。組織の中だけじゃなくて、対面でのコミュニケーションでも「心理的安全性」みたいなものはあるかもしれないと先日、ふと感じた。

担当してる利用者さん・ご家族のほとんどは幸いなことに、そこそこの関係性はできていると自負している。何でも言い合えるわけではないけれど、一般的な常識の範囲内でやりとりをして、その利用者さんは介護サービスを選択したり利用して在宅での介護療養ができるし、そのことでケアマネである自分は国から報酬をいただける。目に見える糧だけではなくて承認欲求も満たされたり、自己実現欲求も充足できる。
自分の中にある責任感とか職業倫理とか誠意を使うことで通常の仕事は成り立っている。ここ数年くらい、すごく困ったとか嫌だとか利用者との関わりでは感じることは少ない。
ケアマネである自分と利用者さんとの間である程度の心理的安全性を共有ながら意思疎通を図っているんだと感じる。

だけれども、どうも苦手で担当するのが辛いな~って方がいる。コミュニケーションは合わせ鏡と言うけれど、何度も嫌な気持ちになって自分も構えてしまう。ずっと前に目線の上下というような記事を書いたのだけれど、自分ではそう思っていないことでも、断定的に厳しく言われると傷つく。気にしなければいいのだけれど、それでも相手から発せられる負のオーラが強ければ呑み込まれてしまう。

相手は自分のことを試してるって側面もあるのだと理解するし、事実関係ではなくて感情的な部分で何か言われた時には、弁解とか反論は逆に炎上するから、言質を取られないように、墓穴を掘らないように最小限の言葉だけ使って、表情と態度は極力穏やかに接する。理屈で分からない相手に、真っ向勝負するのは決裂しても良い状況の時。まだ、そこまで行かないかな~って判断できるので受け止めつつ流す。
そんなことしてると相手の思うツボなのかもしれないけれど、その利用者に対して自分の心理的安全性は不安定なレベルにあるな~って思う。強い口調で何か言われたとき、不快だし怯んでしまう。
逆に相手のことを眺めれば、そこまでとかそんなこと言わなくても良いじゃんって思うのだけれど、言うことができるのはコンプレックスの反動とか他人への信頼感の欠如から来るのだろうけれど、逆にこの相手なら何を言っても許される、みたいな気持ちも感じる。自分に対して少なからず心理的安定性みたいなものを感じて下さってるのかもしれない。
自分は支援者の役割があって、定められた職務を果たすことに集中する。良好な関わりを持つために、相手の背景にあるものまで理解して関わっていくしかないけれど、それでも内面は人としての気持ちや感情を持っていて、負の感情を向けられたり想定外の妄言を言われたりするのは、面倒くさいし、やってられないって思ったりする。
ちゃぶ台ひっくり返して「もう限界です!やってられません!完璧なケアマネを探して交代して下さい!何なら自己作成プラン作ったらどうですか?」って啖呵切るような妄想を膨らませる。
何だかんだ言って3年目の付き合いになってるけれど、この利用者さんへの訪問は未だに緊張する。