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対人支援の難しさ

対人関係は本当にややこしい、そんなつもりじゃなくても、違う捉え方をされて思いがけない反応をされることがある。
人に対して、何かしらの「支援」を仕事にしていると、相手との関係性を悪くなく保つことが最低の条件になるけれど、それって考えてる以上に難しい。本当に難しいことだと心底感じる。
でも、頑張ってその最低条件をクリアすることが専門職なのだと思う。そしてどうしても相容れない、例外的な相手に当たったとしたら担当を替えてもらうこと。人と人との相性はあるから自分がどうしても関われないこともごく稀にはあって、相手も自分に対して不満どころか苦痛まで感じるようであれば、新しい援助者を得て心機一転するほうが建設的だ。

担当変更という最終的な切り札を持って対人支援の現場に乗り込むわけだけれど、支援者に必要なのは「支援したい」って熱量!   ではない。
大きな視点で対象者を俯瞰的に見ること、どこに課題があるのかを探ること、課題を探る過程では当然、対象者をよく観察して話を聴くことだけれど、何に対して関心が強いのか、弱いのか、どんなことで怒るのか傷つくのか注意することが、相手を知るために、自分を守るためにも大事かな~って思う。
医療とか介護とかは、支援する相手が複数の場合がほとんどで、本人への支援、家族への支援が同時に必要になったりする。だけど「助けたいこの人」って対象が狭くなりすぎると、その人への同調が強くなって、それ以外の家族や本人を敵視してしまうなんてことになりがち。

冷静になって、視野を広く持ってケース全体を見渡して支援する姿勢がとても大事。家族ってその家族にしかわからない世界があって、傍からはそう見えなくても愛情とか愛着、執着かもしれないけど、何かしらの感情は必ずある。
支援者は本人を救う、助けることが第一義だけれど、家族の存在を蔑ろにするのは傲慢なんだと思う。明らかな暴力とかネグレクトで「虐待」認定される場合には、公的な手続きを踏まえて対処すべきだけれど、その判断も実はとても難しい。単純に引き離してOKで済ませられるなら、それで支援者が自己満足するなら、それで良し。だけれど、そうすることが本人にとって、残った家族にとって最善なのか、そういう判断を支援する側がしたことで、結果的に誰も救われないってこともある。Yahoo!とかでよく見るコメントみたいなのは、実情を知らないから無責任に書き込めるに過ぎない
そういうギリギリの判断って、一人では責任を負いきれないから、よくケースを見て関係者で協議してこれしかないって根拠を示して実行することだ。

対人支援を生業にするのは、やりがいもあるけれど、すごく怖いことだなって感じる。支援者が熱意と善意を持って行ったことでも、それが必ずしも相手に伝わるわけではない。思わぬ逆恨みをされることもある。誰にとってもそれは不幸なこと。一人に向けられた善意と熱意が、他の誰かを傷つけたり怒りを招いたりすることがある。本人だけでなく家族も関係者も含めて支援対象って捉えること、支援の限界も自覚してできる範囲の中での最善を見つけること。

地域で頼りにされていた往診医が亡くなられた。本当に悲しく、悔しく、信じられない気持ちで胸が痛い。
犯人への憤りは当然ある。だけど、それだけじゃなくて、その犯人が抱える闇とか孤独とか絶望とか、ここまでになってしまった「痛み」も想像すると同じくらいに胸が痛く、悲しくなる。