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蝉の声を葬送曲にして

振り返ってみると、彼女のような友達を親友と呼ぶのかもしれない。そんな20年来の仲良しが、この夏に逝ってしまった。たった1ヶ月足らずで…。

通夜や葬儀に参列してなお、まだ信じられないような心地がしているけれど。時が過ぎ、全てが年月の波に揉まれて薄れてしまう前に…たどれる記録のあるうちに…この夏に至る日々を備忘録として書き残しておきたいと思った。

* * *

始まりは、4年前の8月。
友達から「詳しくは落ち着いてから話すけど、これから秋にかけて、ちょっと入院とかしなきゃならなくなったので何も予定が立てられなくなったんよ。」と、LINEのメッセージが送られてきた。この時は「何かできることがあったら頼って欲しい、また話せるようになったら話してね」というような、簡単なやり取りをしただけだった。

その数週間後、自分は突然母を亡くした。
亡くなった際、母は乳がんが全身に転移していたのだが…そのことを友人にも同居の家族にも隠しており、誰も知らなかった。この3ヶ月近く「腰が痛い」と寝込んでいたのだけれど、それは「座骨神経痛による腰痛で立てなくなった」と言い張っており、家族はそれを信じていた。
母が倒れて病院に運ばれた際、医者の口から初めて末期癌だと知らされた時のショックといったら…。レントゲンを見ながら「23年前の乳がんが再発して骨・肝臓・脳にまで転移しており、それが原因で脳出血を起こしている」との説明に加えて、「手の施しようがありません、余命1週間です」と告げられて。まるでドラマのような告知シーンが、青天の霹靂過ぎて。あまりの衝撃の大きさに、心が追いつかなくて。涙のひとつもこぼれなかったことを覚えている。

母を亡くして程なくして、友達からまたLINEが届いた。こちらを気遣う言葉と、大変な時に力になれなかったことへの謝罪、それから。うちの母の病状や死因を聞いて伝えるべきかどうか迷ったけれど…彼女自身も乳がんとの診断を受けている、という内容だった。とはいえ「ステージ0だし、手術と放射線治療をすれば再発の心配はほぼ無いと言われてるんで、命の心配は私を含め、だれもしてないよ。」とのことだったので。(手遅れになるまで放置した母と違って、彼女は大丈夫だ…)とホッとしたことを覚えている。

事前に彼女が「過剰反応せずに事実だけを受け止めてくれると思うから伝えるけど」と前置きしていたのもあって、哀れみや悲壮さのない気軽なやりとりばかりを幾日かに渡ってしていた。そんな中で、ポロリと弱音がこぼれることもあった。ちょうど母を亡くしたばかりの自分の心境と、重なる所もあったのか。

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(中略)
※個人的なやり取りの記録なども含んでいるので、(中略)部分は公開を制限。この部分は4年間と最期の1ヶ月について書いた1万文字程の長文で、有料部分で全文公開しています。有料部分は、この下ではなく最下部からとなります。

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彼女との別れに選んだ言葉は、「またね」だった。社会情勢や彼女の病状を考えると実現しない可能性が高いだろうとは思いながらも「またお見舞いに来てもいい?」と尋ねると、「また、来て…」と返してくれたので。2度と無いかもしれない"また"を意識しながらも、「またね」と告げて病室を出た。

* * *

自分は彼女の痛みにも苦しみにも不安にも恐怖にも、何もしてあげられなかった。どれだけ言葉を並べても、祈りを捧げても、病が消えることは無い。無力で、何の役にも立てなくて、でも彼女のことは大好きで。

「本当に頑張っとったこと、今も頑張っとること…知っとるよ、えらかったね頑張ったね。でも急にこんなことになって怖かったね不安だったね」「会った時から大好きで今も大好きで、ずっと仲良くしてくれてありがとう。」「側にいない時もずっと想っとるけんね」

ただ感じるままに、そんな言葉を並べ立てることしかできなくて。この日は彼女が亡くなるまでの約1ヶ月の間で、1番辛い日だった。

でもきっと、それでも。こうして会えたこと、言葉を交わせたことは幸運だったのだと思う。ご家族以外で亡くなる前の彼女に会えたのは、結局自分だけだった。共に見舞った夫は、体温チェックではねられて入室できなかった。「状態を考えると、会わせたくない」という彼女のだんなさんと交渉してまで見舞いに行った友人は、彼女の状態が良くなかった為に入室できないまま終わった。

* * *

彼女はお見舞いに行った日から、ちょうど10日後に亡くなった。眠るように息を引き取った、と聞いている。亡くなった後にご家族からは、「あの日がまともに会話ができた最後の日だったと思う…」と聞かされた。

振り返れば、あの時間は、まるで小さな奇跡みたいだったようにも思う。家を出る直前に、御守りに願った通りの。どうしてもどうしても、意識のある彼女と会いたくて、病院へ出かける前に藁にもすがるような気持ちで願をかけたのだ。「彼女の病がどれだけ祈っても変えられない運命なら…せめてお見舞いの時に"意識があって会話ができる"、これくらいの小さな奇跡は叶えてもらえませんか…」と。

もちろんそんなことは関係なく、ただ単に運が良かっただけなのかもしれない。はたまた祈りが、たしかにどこかに届いたのかもしれない。でも母の時にはできなかった最後の会話ができて、想いを伝えることができて、2人だけの時間が持てて…どれだけそのことが自分の救いになったか。必死に言葉を返してくれた友達の心に、どれだけ愛を感じたか…

特別で、大切な、代わりのきかない長年の友達だった。出棺前に花を手向ける際、彼女には「また会おうね」と声をかけた。いつか、自分もあちらに向かったら、きっとまた会うのだという思いを込めて。生死を超えた向こう側に、「また」があるのだと信じて。


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(中略)部分を含めた全文と、後書きは下記へ
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