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わたしのカメラのたのしみ方

若かりし頃は、「思い出はこの目で見て、心と記憶に焼き付けるもの」だと思っていた。だから大学で海外実習に出た時も、生まれて初めての海外旅行だというのに持って行ったのは36枚撮りの使い捨てカメラ1台きり。これで十分だと考えていた。

当時の自分にとっては、それは正しかったのだろう。初めての体験だらけの日々は刺激的で、思い出深いもので。「こんな記憶、何年経っても忘れるわけない」本気でそう考えていた。

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しかし20年近く経った現在の自分は、当時の自分の肩をガクガク揺さぶって説教したい気持ちでいっぱいだ。今の自分は知っている、どんなに忘れ難い思い出だったとしても…記憶とは静かに積み重なり、そのような思い出すら埋もれさせていくものなのだということを。

もちろん、忘れ去るものばかりではない。強い感情と結びついてさえいれば、それがトリガーとなり記憶はいつだって昨日のことのように蘇る。しかし"楽しい体験"というのは、ネガティブな感情と比べて雲散霧消してしまいやすいように思う。ましてや強い感情の伴わなかった些細な思い出などは、ブラックボックスにあっさりと迷い込んでしまって2度と触れられない可能性は大変に高い。

人の記憶とは、簡単に検索ができるパソコン内のデータではなく。インデックスをつけて整理しておかなければ引っ張り出すことのできない、紙の資料のようなものだ。資料が少ないうちは探すのも簡単かもしれないが、それが膨大になってくると何かの手掛かりがなければ見つけ出すことは不可能に近い。

そのインデックスとなり得るものが日記や手帳やお土産、そして写真なのだと今の自分は思っている。まだ若い人たちも。今の自分には必要なくとも、歳を重ねたいつかの自分のために…そういった記憶のトリガーをいくつも作っておくといい。

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自分がその中でもとりわけ写真を好むのは、そこに写ったものだけではなくシャッターを切った時の自分の心の動きや意図まで覚えていられるからだ。目に映した事実だけでなく、何を美しいと感じたのか何に心を動かされたのかまでわかる。自分で撮った写真には。友達や家族と笑顔で写った、人から撮ってもらう写真には無いものまでが保存されている。

だから初めて異国で過ごす17日間を記録するには、たった36枚の写真では全く足りなかった。もうすっかりつぎはぎになってしまったあの頃を振り返る度に、もっとしっかり写真で残しておきたかったと口惜しく思う。おぼろげな記憶ではもう、それが本当にあった場所なのか記憶違いの思い込みなのかすら判断が付かない。カメラさえあれば、もっとたしかな手触りで思い出せたはずなのに…。

この悔しさのおかげで、今は旅に出るとまめに写真を撮るようになった。時にはスマホで、時には一眼レフを持ち出して。食べたもの、行った場所、心が動いた何か…未来の自分の為にそれらをせっせと切り取っては。時に言葉を添えて、大切にインターネットの箱の中にしまっておく。


「忘れてしまうなら、それはそれでいいじゃない」と思われるかも知れないが、5年10年20年…といつか記憶が風化するほど時が過ぎ去った後に。今はもう手の届かない場所にある思い出達をふと取り出して、その手触りをそっと確かめてみる…そういう贅沢がしたいのだ。その贅沢さを手放したくないのだ。

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だから今の自分にとって、カメラとは人生の相棒であり。カメラのたのしみ方とは、未来への貯蓄のようなものだ。いつかの自分のために、わたしはシャッターを切り続けている。



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まだスマホも無く、学生にとってはカメラ付き携帯もデジタルカメラも高額な頃のお話。今の、いつも誰でも手の平の中にカメラがあるような日々はつい20年前にはなかったもの…そのありがたみをこの文章を書きながら、改めて感じました。

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広島で、大人から子供まで人物の出張撮影をしています。自然な情景を、その時間を…切り取って残したスナップ写真は、お客様だけでなく自分にとっても宝物。何かありましたら、ぜひどうぞ!

ユルリラム
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