明智城から長良川上流へ:明智光秀逃避行ルートの地形・地質part2【歴史と地質:其の1】
前回は長良川の戦いまでを見てきました。続きです!
part1はコチラ↓
長良川の戦いから逃げる
長良川の戦いの前に斎藤道三は北の大桑城へ逃げ、軍勢を整えています。
稲葉山城と美濃三人衆の居城の位置関係を見ても南は危険ですよね。
戦場から明智城まで逃げるルートを見ていきましょう。
勢力関係もあるのですが、もし赤点線のように南から逃げるとすると、ルートが限られるんです。
木曽川沿いだと赤丸の狭窄部がネック。さらに東に回り込んでも丘陵地を通り抜けねばならない。
その点北は敵が手薄なのと、大桑城方面への谷は川も小さくて通りやすそう。そして途中から東に曲がると、ずっと平地を通れます。
もちろん真偽は不明ですが、地形的に見ると北回りの方が逃げやすそう。
明智城周辺の地形と地質
明智城があったとされる場所を見てみましょう。
こんな感じです。
確かに山ではありますが、稲葉山城ほど高く険しいわけではなく、丘陵地といった雰囲気ですね。
平らな土地は住宅地でした。にしても裏山が明智城跡だなんて、この住宅地に住んでいる人たちが羨ましい(笑)
もともと平ではなく、削ったりして造成したのでしょう。
北には可児川、南には久々利川(くくりがわ)が流れていて、水田には適した良い領地ですよね(武士目線、笑)
黄色が約2000万年前~1400万年前の砂岩です。岩石ではありますが、そこまで硬くはないので山が低めなのは合点がいきます。
そして城の位置は約700万年~258万年前の礫岩。砂岩より硬いですし、城の基礎としては申し分ないですね。
逃避行ルート①:起点~関
前回も紹介したサイトでは、途中にチェックポイントのような場所が示されています。関所なのか、宿場町なのかは分からないんですが、それを目印にして話を進めようと思います。
これですね。
調べてみると、ここには関城(せきじょう)という城がありました。現在の関市(せきし)です。
関城をつくったのは長井長弘と言う武将で、斎藤道三の父親の主君だったようです。
でも権力争いで斎藤道三サイドに殺されてしまい、後の城主は長井道利と言う武将になります。しかしこの人、名前は長井ですが斎藤道三の弟か子供という血筋・・ややこしいですね。
しかも長良川の戦いでは義龍サイドだったらしい。でも当時、関城の城主だったかは不明です(;^_^A
やはりこの辺は素直に街道は通らず、北の丘陵地か谷合を通るのが無難ですよね。
北の谷合のルートは平坦地が広めで峠は険しくないので抜け道としては良さそうです。
地質は稲葉山城周辺と同じく、中生代ジュラ紀の砂岩や泥岩(付加体)でチャートより柔らかめなので山は険しくないのですね。
逃避行ルート②:関~郡上八幡
この先は本格的に険しくなりそうです。
地形を見てみましょう。
真ん中を南北に流れているのは長良川です。
戦場になった場所と比べると、いかにも「上流」といった雰囲気で、かなり蛇行している河川ですね。
越前美濃街道はほぼほぼ長良川に沿うかたちで通っています。
こんな感じです。
長良川沿いには河川堆積物でできた平坦地があるので歩くには問題なかったと思います。
しかし直線距離でも30km近くあるので、蛇行した河川沿いだと50kmくらいになるでしょうか?
途中のどこかで一泊したと考えられますね。
地質はずっと中生代ジュラ紀の付加体で、泥岩(灰色)・砂岩(黄色)・チャート(オレンジ)です。
はじめはジュラ紀中期(約1億7000万~1億6000万年前)ですが、だんだん新しい時代になり、郡上八幡手前ではジュラ紀後期~白亜紀前期(約1億6000万~1億3000万年前)になります。
まぁ、だから何だ?と言われたらそれまでですが(笑)
今回はここまで!次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。
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