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女一人くらいどうにでもなりますわ

人は一人で生まれて、一人で死んでいく。いくら稼いでもあの世に持っていくことはできないし、いくら友だちがいてもつれだって旅立つことはできない。

生まれたときも裸一貫。死ぬときも裸一貫で、シンプルな話なのだが、生きているあいだはそんなことはなくて、目に見えないいろんなものがくっついてくる。

一見すると人はみなシンプルな人のかたちをしているようだが、じっさいはマイホームを背負っている人、家族を背負っている人、会社を背負っている人、名声を背負っている人、国家権力を背負っている人など、目に見えないものを加味すれば、かなり複雑なかたちをしている。

ぼくじしんは、できることなら、目に見えるこのかたちをしたまんまで、動物のようにシンプルに生きていきたい。そうすれば、津波が来ようと、火山がこようと、動物みたいに逃げればいいだけだからラクなものだ。

しかし、アドバイスってのは、役に立たないものである。たとえば、都会で生活に困っている人に、ぼくなら「田舎で暮らせ」と言うだろう。生活費を手っ取り早く落とせるし、あまり働かなくて済むし、別のことを始める余裕も生まれる。

しかし、ひとによっていろいろあって、すぐにうごける人のほうが少ない。

川端康成の『雪国』は、新潟県湯沢市が舞台だが、そこの温泉宿に長逗留している主人公が、旅館の手伝いをしている女性にとつぜん「わたしを東京につれていってください」と言われるシーンがある。

「君はそんな、男の人と行ってこわくないのかい。」
「どうしてですか。」
「君が東京でさしずめ落ちつく先とか、なにをしたいとかいうことくらいきまっていないと危ないじゃないか」
「女一人くらいどうにでもなりますわ。」

この「女一人くらいどうにでもなりますわ」という投げ出すように言うところが好きで(笑)。じっさい「男ひとりくらいどうにでもなりますわ」なのである。女も男も一人くらいどうにでもなる。いざとなったらどうにでもなる。

東京をはなれられない。故郷をはなれられない。仕事をはなれられない、家族をはなれられない。友だちとはなれられない。それは聞けばそのとおりで、人はなにもはなれられなくて、どうにもならない。

しかし、一人で生まれてきて一人で死んでいく。はなれられないと思っても、はなれていく。そういや、こうしてモノをかいたり読んだりするのは、ほとんどジャマにならないな~。このnoteだって、放っておけば、いつかだれかが、おもしろがってくれるかもしれないが、なんのじゃまにもならないな。

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