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好きなときに 好きなように ―『孤独のグルメ』

『孤独のグルメ』はみんな好きですよね。原作マンガもいいけど、ドラマもいい。しかし、人気の原作がドラマ化されるとかならず「ちがう!こんなの〇〇じゃない」と言いだす原作ファンがあらわれるのは、「原作ファンあるある」である。それがぼくだった。

原作の"孤独"は、ハードボイルドの孤独だった。ヘミングウェイの連作短編『われらの時代』みたいな感じ。短い作品をつみかさねるうちに、主人公ニックの過去がぼんやり浮かびがってくる。

原作『孤独のグルメ』もあんな感じだ。最初は食レポマンガだと思っていたが、マズい料理も出てくるし、食べないで出てくることもあり、喧嘩になることもある。

エピソードを追うごとに、祖父に育てられた生い立ちがあきらかになる。おしえこまれた古武術を嫌っているのがわかる。「体格イイね。スポーツやってたの?」といわれると「なにもやってません」とムキになる。そのくせ、中華料理屋で無礼なふるまいをする空手師範を古武術でイタイ目に合わせて、あとでわれに返って自己嫌悪する。

そういうのがよかったんだけど、ドラマを最初に見たときには「おいしい店のたんなる食レポ」だったのでややガッカリした。でも「ドラマで紹介した店をマズい店にするわけにはいかないしな」と大人の事情に納得したつもりで数シーズンを見た。

でも、だんだん感じ方が変わってきたのである。ドラマにもしっかりと孤独が描かれているのがわかる。原作とは方向性がちがっているだけだ。描かれているのは、おのれの腕っぷしをたのんで社会からはみだすアウトローの孤独ではなく、同調圧力の強い社会でなんとか生きている中年男が、しがらみをはなれて味わうささやかな孤独だ。

・・・今日は『孤独のグルメ』の作品論をする気はなくて、ここまでは前置きの前置きのつもりで5行で終わらせるつもりだったんだけど、そうはいかないよな~。そろそろ長くなってので、短めに終わらせます。

たとえば、ともだちがカレー屋をはじめたらどうしますか?食べに行きますよね。おいしくてもおいしくなくても食べにいくし、カレーが食べたくなくても何度も行く。それが社会というものである。つきあいというものである。食べ物にだってしがらみはある。

ドラマの五郎は仕事のあいだ、ひたすらペコペコしている。言いたいことをいえず、クライアントに押し込まれてばかりだ。しかし、商談が終わったとたんに自由がやってくる。その自由が「何を食べよう?」の自由である。ひとりなので、気がねはいらない。「カレーは食べたくないけど、ともだちのカレー屋に行かなければならない」といった世間のしらがみは聞こえてこない。かれが耳を傾けるのは胃袋の声だけだ。

ひたすら直感にまかせて街をさまよう。このさまようところがいいのですよ。三船敏郎の『用心棒』が、右の道を行くか、左の道を行くか、棒をなげて行き先を決めるように、焼き肉か、ラーメンか、そのときの気分で決める五郎。ただし、三船と違って五郎がさまよえるのは、食事の時間にかぎられる。

ぼくは食事にこだわるほうではないけど、本とか映画とか音楽については五郎なみにこだわる。いまどんな本を読みたいか、どんな映画を観たいか、いまどんな曲を聞きたいのか、自分の心にたずねて、そのとおりに動く。それ以外の声はいっさい聞かない。

世間でなにが流行っているとか、これを観ておかないと話題におくれるとか、いっさいムシである。話題に合わなくてけっこう。バカにされてけっこう。孤独でけっこうである。『地獄の黙示録』を20回見て変人あつかいされてもけっこう。「半沢直樹」を1度も見ていなくて話題にのれなくてもけっこう。いくらバカにされても「なにを観るか、なにを聞くか」という自由だけは、わたすつもりはない。

店を探してさまよう五郎は、そういう意味では、ぼく自身にかさなる。この自由を「大人の事情」でうばわれたらツラい、という話をしたかったんだけど長くなったので明日書こうかな、または、そのうち気の向いたときに書く。あしたの自分がどう思うのかは明日にならなければわからないから。ここにも気の向いたことだけを書いている。

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