人は他人を誘導しようとするいきものだ
1.すべての人は自分の色眼鏡で現実を見ている
人はみな、ちょっとずつ自分の色を付けて現実を見ている。
これはだれでもそうであり例外はない。「現実を客観的にとらえている人」などという人はこの世の中に存在しない。
しかも単に色を付けるだけでなくて、
ところがあって、今日言いたいのはこのことだ。
自分の見ている現実の色で、意識的に、無意識的に、周囲の人間を誘導しようとする傾向がだれにでもある。
2.父は痴ほう症なのか
最近、そのことを実感させられるできごとがあったので、具体例として挙げてみよう。
ぼくの父親は80代半ばの独り暮らしで、ここ数年は次々と問題を引き起こしている。2人の息子(ぼくと弟)は、その件に振り回されているのだが、この2人の見方が真逆なのだ。
ぼくの見方では、父は年相応に記憶力が衰えてはいるが、痴ほう症ではない。わかいころから今と同じように愚かなことをしでかす人間だった。しかし弟は「痴ほう症だ」と見ている。
専門家ではないので、どっちが正しいということは言えないし、また冒頭に書いたように、人は自分の色を付けて現実を見るので、ぼくも弟もそれぞれの好みの色を付けて「父親」という現実を見ているにすぎない。
それはそうだとしても、弟は、ぼくとさまざまなトラブルの処理をめぐってメールのやり取りをする中で、
という見方をことあるごとに刷り込ませようとする動きを見せる。悪意はないと思うがどうしてもそうなっていく。
3.ぼくの見ている現実
1例を挙げると、父はいま部屋の中をけっこう汚くしている。しかし、僕に言わせればとこれは昨日今日始まったことではない。
実際には結婚前から相当汚いところに住んでいたと聞いているし、そもそもの生まれ育ちがずいぶんと汚い環境で、もともとがああなのだ。
ぼくの知る限り、かれが清潔だったことは一度もなく、かつては母が取り繕っていただけである。そして、母の死後にごみ屋敷化を食い止めていたのは僕であり、半年に1回帰省して大掃除をしていた。
しかし、コロナ禍で帰省がとどこおったため、ついに父本来の汚さが表面化したにすぎないというのがぼくの見ている「現実」だ。
4.弟の見ている現実
しかし、弟の目には、父の現状が「老化によるごみ屋敷化」として映っている。原文を引用すると
などとさりげなく書いてある。
あわせて「自転車でコケて病院に運ばれて警察の厄介になった」などというこちらがまったく知らなかった事実を書かれるとつい動揺してしまう。そして「ゴミが増加傾向にある」というくだりまで丸のみにしてしまいそうになるんだけど、冷静になって考えてみるとそうではない。
腐った生ごみは昭和の頃からあったわけで、今増えているように見えるのは、コロナ禍でぼくが帰っていなかったからにすぎない。
弟を悪く言うつもりはなくて、しっかりと誠実にやってくれているんだけど、こんな感じでちょいちょい印象操作と言うか、ふと誘導してくるような動きががあるんだよな。たぶん、これははあらゆる人間に共通するものなのだろう。
5.社会は既成事実化の絶え間ない連続
上の例では、さいわいぼくと弟との見方が逆なのでこういう風に指摘することができるんだけど、もしこれが同じ見方をしている同士だったらいまごろは
と二人が意気投合し、父親本人にあずかり知らぬところで「痴ほう」を既成事実化していたことだろう。そう考えると結構恐ろしいのだが、世間と言うのはこういう既成事実化の絶え間ない連続でできあがっている。
僕と弟のようなパターンのほうが例外であり、おおくの場合、人は考えの似ている人同士でつるんでしまう傾向があり、そうやってお互いの信念を強化しあって、それを既成事実化していく。
そして、政府に対する憤りだとか、正義感などが強い人ほどこの偏りの度合いが強く、政治外交軍事などに積極的に関心を抱く人はわりにこのタイプなのだ。
一方で、柔軟に人の話を聞くタイプの人もいることはいるが、このタイプはもともとノンポリで、あまり社会問題に関心をもっていないことがおおい。
つまり柔軟な人は社会に無関心で、関心の強い人ほど偏っているということになり、世の中うまくいかないものだ。そういうぼく自身も「わりに柔軟だが無関心」の部類に入る。
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