情報は時に人を不幸にしてしまう ひろゆき氏の言葉

ブータンという国がある。もともとが貧しい国で、農業で細々と暮らしていたが、国民の幸福度は高かった。
しかし、経済発展をしてテレビが見られるようになり、「借金をする」という概念を覚えてしまった。ちゃんと学校教育を受けていなかったため、借金をして物を買うことになんの抵抗もなくなり、みんな借金で首が回らなくなってしまい、幸福度は下がっていってしまった。

人と比較してしまうのは、もう性(さが)なのかもしれない。いつから、こんなにも人のことを気にするようになったのかと思うことはないだろうか。
確かに、比べるものがない時代、人は自分と自分の周りを見て生きていたに違いない。それが、多くの情報を得られるようになってからというもの、常に誰かと比べて過ごしているのではないだろうか。
比べる=うらやむ、と言っても言い過ぎではないように思う。

ひろゆき氏は“エッグスタンド”を例に挙げて説明していた。
エッグスタンドを持っているか持っていないか。モノの価値はその人が決める。エッグスタンドなんてあってもなくてもどうでも良いって人にはその価値は永遠にわからない。エッグスタンドがなくては困るって人も、きっと世界中のどこかにいるのだろう。

そう考えると、幸せを感じるということは、人との比較によってしか生まれないのかと思ってしまう。
人に比べて、○○をもっているから幸せ。
人と比べて、○○を経験したことがあるから幸せ。
うらやましいと思われること?優越感に浸れること?が幸せを感じる瞬間なのかもしれない。

スポーツの世界でも、科学や芸術の世界でも同じくだ。試合に勝ったとか、何かの賞をもらえたというのは、実は人と比べて優れている(勝っている)という証をもらえたに過ぎない。しかし、往々にしてそういう人はとっても嬉しそうだ。
その嬉しそうな表情を見たとき、こちらまで嬉しくなってくることもある。それはそれでよいのだが、見ている人の中には、きっと羨望の眼差しの人もいれば、心底悔しがっている人もいるかもしれない。
だからこそ、当事者は幸せを感じるのかもしれない。

少しうがった見方であろうか。

考え方の自分軸をつくるか。
確かに、自分軸というものがあれば、人と比べることも少なくて済みそうだ。しかし、それは過去に幸せを感じたことがある人の特権であるようにも感じる。自分軸がしっかりと持てるのならば、それはもう比べる必要がないということでもあるから。

幸福度、とは?
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