見出し画像

「褒めて伸ばす」違和感の正体を探る

新年早々テレビで「褒める」教育「褒める」人材育成などが特集されていた。なぜだろう。この「褒める」という言葉に対してやたら違和感を抱くのは。

「褒めて伸ばす」系は巷にたくさんありますよね。人事、教育、子育て。。。
一時期、アドラー心理学がキタときは「褒めるも叱るもダメ!」で「感謝」だ!となってたのに。。
いつの間にかまた「褒める」が侵食してきた。アドラー心理学もまた、単なる流行だったのか。。

モヤモヤしたままだと気持ち悪いので、その「違和感」の正体を暴いてみたいと思います。(長いです)

※言うまでもないですが、私が個人的に持つ違和感の正体です。違和感を抱かない人が変とか、おかしいとか、そう言うつもりは一切ないです※
(イラストは大好きな「いらすとや」で「褒めて伸ばす」で検索しました)

そもそも自分の中に「褒められた記憶」がない

これは、悲しい過去とかではなく、以前の自己紹介にも書きましたが
↓コチラ

私には、言葉の記憶というものが、ほぼ存在しない。。
これは、自分の認知特性ゆえのことだと思う。
(視覚優位であると思われ👀)

人の言葉も、自分の言葉も、コトバとしては一切覚えておらず(なんとなくの話の流れとしてはいくらか覚えている)それよりも場面や情景を記憶している。

もちろん親からも、先生からも、友人からも、同僚、上司からも、褒めてもらったことはたくさんあると思う。いや、あるはずだ。

しかしながら、ぜーんぜん覚えておりませぬ。
「昔、あなたにこう言われてさ~」とかよく言われるけど、そんなこと言ったっけ?となる。

すなわち、褒めてもらおうが、貶されようが、私に対して言っていただいたことはコトバとして残っていない。皆無とも言えるかもしれない。。。(私に何かお言葉をいただいた皆様、申し訳ありません。)

ちなみに言うと、データ、情報などは記憶していることが多い。感情の類を記憶していない。この違いはなんだろう。

「褒める」とは「主観的」な「マウンティング」である

「褒める」とは、そもそもどういう意味なのか。
辞書で調べてみた。

1.人のしたこと・行いをすぐれていると評価して、そのことを言う。たたえる。
2 .祝う。ことほぐ。

人を「良い」または「優れている」と「評価する」ということだが。。

まずひとつ「評価する」には、ある種の上下関係が含まれている。よね?
そう思いませんか?

自分より立場が上の人に対して「褒める」ことは決して誰もしないのではないかしら。(まあ、気づかずしている人もおられるだろう。でもそれは、とても失礼なことです。)

次に「良い」「優れている」の基準は、主観的なもの。

私の物差しで見ると、上等だよ。
オレの中では「良い」と思うよ。

と。

善し悪し、これは普遍的な事実ではないと。そう思う。
なので、所詮、一意見。
上から目線の一意見に一喜一憂することは、私にとっては無意味としか思えない、のである。
(以前も書いたが、わたくし自身がスーパー上から目線な人間なのです。)

ちなみに「褒める」と「誉める」がありますね。

「誉める」の方は、目上の人にも使っていいそうですよ。
「偉業を成し遂げたことをみんなでたたえること」だそう。すなわちこちらの「誉める」は多数から個人への声かけ。ある種、客観的なのかもしれない。

「褒める」の方は個人から個人への声かけ。

有難い「良い」コトバを誰かにいただいたら、嬉しい~ありがとー!と言ってその感情だけ味わって、あとはすべて記憶から消し去ってもよいのではなかろうか。
ほかに脳に記憶すべきことはたくさんあるのだから。

「褒めて伸ばす」に隠された「支配欲」

上に書いたが繰り返すと
「褒める」とはある種の上下関係を含んでいる。

目下の者の能力を(人生や実務の先輩として)純粋に伸ばしてあげたい、と思う気持ちは誰にでも(もしあなたが優しい方なら)あると思う。

純粋に「すごい!」と思って誰か(自分より下の立場の人を)を褒めることも、誰にでもあると思う。
それが心から出ている感情ならば、なんら問題無いのかもしれない。

だがしかし「褒めて伸ばす」となると、猜疑心が働いてしまう。有難い褒め言葉を、素直に受け入れられなくなる。
なぜなら「心から出た褒め言葉を伝えたい」という目的から「都合良く動いてくれる人に育てたい」という目的にすりかわっている、と思えるからである。

それはすなわち、自分の望むように相手を操ろうとしているのではないかと、手の上で転がそうとしているのではないか、とさえ思えてくる。

もう少し悪意の無い表現をすると(私の穿った見方がかなり入っていたね↑)子や部下のことを思って「自分の声かけで相手をより良くしてあげよう」という善意の塊、なのかもしれない。

もちろん誰かを蔑んでいいとは決して思わないし、他人への声かけは、概ねは、ポジティヴであるべきと思っている。

しかしながら、まず根本的に、私は「他人を変えることはできない」と思っている。もう少し厳密に言うと、他人を「意のままに」変えることはできない、と思う。

これはモチベーションの話にも通じるのだが、人のやる気に対して、他人は何もできないし、他人にどうにかしてもらおうと思っている時点で大間違いである。(この続きはまた別の機会に)

この「褒めて伸ばす」という言葉を傘に、誰かを自分の思うままに変えたいと思い、且つ、その目的達成のための方法論のみを学び実践しているだけ、の人がいるのではないか。
そして、そこに「褒めたい」という本心が無く「とりあえず褒めとけ」みたいな人が増えてきちゃったために、おかしくなっているのではなかろうか。

だって、純粋に「すごい!」「いい!」と思うなら、方法論を学ぶ必要はないのではないかしら。

結果を褒めるのではなく、過程を褒めろ!ともよく言われてるけど、別にそこに褒める要素が無いと判断すれば、わざわざ強引に褒め言葉を探す必要は無いのではないかと、そう思うのである。

わざわざ探してくるってことは、その裏に何か別の意図が必ずあると思う。


称賛、承認、感謝、どれも一過性のもの

アドラー心理学のコトバを借りて、褒めるではなく「感謝」であれば良いのか?

感謝されたら嬉しいし。認められるのも嬉しい。
もちろん褒められて悪い気分になる人はいないだろう。(相当ひねくれた人でなければ)

ここで、改めて言っておくが「褒める=悪」と言っているわけではない。

ポジティブなコトバ(承認、感謝、称賛)をなぜ私は覚えていないのか?
なぜある人は「○○さんに感謝の言葉をいただいたこと、今でも覚えています」なの?

これは、自分にとってどれくらい「特別」「レア」か「稀有」か、ということなのか?と思ったりした。

すっごい!ことを成し遂げたとして、周りから「スゴいね!」とお褒めの言葉をいただいたとして。それをいつまで持っているのでしょうか?お墓まで持っていきますか?

その翌日、もし大罪を犯してしまったとしたら?もう褒めてくれる人はいなくなるでしょう。

「いつも頑張ってるね」と承認してくれる人がいたとして、当たり前のように明日も承認してくれるとは限らないよね。という話。

もし明日も一生懸命頑張っていれば、承認してくれるかもだけどね。
怠けていたら「なんだよコイツ」と思われるかもしれない。

言葉としての感謝、承認、称賛は、私の脳にとっては、いつまでも保持していてもしょうがないもの、と判断されているのかもしれない。だって人の行いは日々更新されているのだから。(もちろん無条件で認めてくれる/認めている存在っているよね。すなわち愛ということか。)


「褒められる」「感謝される」は行動を起こす目的ではなく原動力

例えば何かをして?感謝されたり褒められたりするとする。

みなさん、ちょっと考えてみて欲しいのだが、何か行動を起こすとき、いちいち「あの子にありがとうって言われたい!」とか思ってするだろうか?

「あの人に喜んでもらいたいな」や「何かの役に立てたらな」と思って、行動することは、あるだろう。と思うのだが、その時のゴールは「喜んでいる姿」だったり「ことがうまく運ぶ様」だったりする、と私は思うのだが、いかがだろうか?

私の場合は(というか多くの人はそうと思うが)何かを為すとき、決してゴールを「感謝」や「褒め」に置いてはいない。が、大抵の人は何かをされたら「ありがとう」と感謝の意を伝えてくれるはず。そんな時は「とんでもない」と言って有難くその気持ちだけ受け取って終わる。

「感謝」「褒め」を得るためにしたことではなく、自分にとっては「ある目的を達成するため」(相手を喜ばせること、誰かを助けること、はたまた自分のための場合も)に行ったことだから、感謝されたらラッキーくらいにいつも思っている。

他人がどう、ではなくて、自分がどう、か

例えば「誰かに認めてもらいたいよ」と言ってる人がいますが、誰かに承認されれば嬉しいのは同意する。

でもその前に、自分で自分のことを認めてないのかしら?という話ですよね。これこそまさに、アドラー心理学が説くところだと思いますが。

私は、人からの称賛を得なくても、自分自身が一番、自分のことを称えています。(これはもちろん、何かを成したときは、ですよ。)
もし、だらだらしていたり、ダメなことをしていたら、それは自分が一番わかっているはず。ダメな自分も認めています。(「良い」とは認めてないですよ。「ダメ」と認めています。。あはは。)

人は他人に対してあれこれ思ったり、あれこれ判断をしてくるけど、それを基準に生きることは辛すぎやしませんか。もちろん、人からの意見はとても参考になるのだが、最終的な判断はすべて自分が担っている。と思うのです。自分の人生を生きているからね。

これって、マズローの「自己実現理論」なのかあ。まさに。
(あやしい方はググってね)

さあ、強引にまとめます。

自分で自分を認める。
他人の評価に振り回されない。他人からの「褒め」も求めない。
心から突き動かされない限りは、強引に人を褒めない。
ましてや、見返りを求めて褒めてはいけない。

長々とお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
(これは心からの感謝です。)

かしこ

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?