#熟成下書き「左利きの日に思ったこと」
夏に書きかけて、でもずっと公開するか迷っていたnoteです。
思うところあれば、ご意見・感想いただけるとありがたいです。
8月13日は「左利きの日」だった。
私は左利きだ。
利き手のせいで困ったことよりも「左利きでよかった」と言える思い出のほうが多い。初対面の人が左利きだと、ぐっと心の距離が縮まる気がするし、親近感がわく。
だけど、やっぱりマイノリティだなぁと思う瞬間はある。どうしたって左手じゃ使いにくい道具っていっぱいあるし(実はカメラもそう)、改札もとんがったお玉も自販機もドアノブも、ちょっとだけ不便だ。
「あら、あんた"ぎっちょ”ねぇ...」と親戚の女性にイヤな顔をされたことも、実はある。たかが右か左か、それだけの話なのに、なんだか自分が否定されたような気持ちになった。
ただ、今日私が話したいのは左利きの生きづらさについてではない。
左利きの人の確率は、だいたい人口の10分の1だという。100人いたら10人は左利き。私の体感値でも、だいたいそんな感じだ。けっこういるのだ、左利きって。仲良しのきっちゃん(@_kicchan25)もそうだし、会社や学校でグループワークをすれば過半数が左利きのチームになった経験だって何度かある。
で、話はそこからだ。
最近、別の話を聞いてるときにも、同じ割合の数字が出てきたのだ。LGBTを含む性的マイノリティの割合も、10分の1だという(諸説あると思うけど、たまたま私がそのとき聞いた割合はそうだった)。
あれ、と思った。
私のまわりにいるLGBTの友人は、ほんの数人。じっさいは左利きと同じくらい、いっぱいいるはずなのに。左利きの友人なら、どんどん顔が思い浮かぶのに。
これはどういうことか。
「◯◯って可愛いのになんで彼氏つくらんの?」
「△△のタイプってどんな男の人?」
「□□って、結婚するならどんな男性がいい?」
すべて、過去の私が言ってきたことだ。
女性は男性が好き。男性は女性が好き。そういうものだと思い込んでいたし、恋バナは距離を縮める便利な道具だと信じて疑わなかった。
だけどその短絡的な思い込みのせいで、少なくない数の人がそっと口を閉ざしてきたはずだ。私の無邪気な発言で、心をえぐられた人もいたはずだ。
本当はそんなつもりなかった、というのは卑怯だろうか。本当は、そういうことを聞きたかったわけじゃないのだ。あなた自身のことを聞きたかったのだ。もっとお互いを知って、仲良くなりたかったのだ。ただ、その方法があまりに思慮に欠けていた。
左利きの生きづらさを叫ぶ前に、私自身が誰かの「生きづらさ」をつくりだしてないか、つい考えてしまう1日だった。
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