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教科書だけで解く早大日本史4-3 人間科学部2020

 前回からやや間が空いてしまいましたが、今回は大問Ⅲに入ります。大問Ⅲは江戸時代の史料問題です。受験生の皆さんは史料問題というと少し身構えてしまうのではないでしょうか。知らない史料(未見史料)だとなおさらです。ついつい穴埋め部分だけを読んで素通りしてしまいそうですが、大学が入試で史料問題をだしてくることには意味があります。この連載が続いていくうちに見えてくるものもあるでしょう。

 さて、大問Ⅲでは、早稲田ではおなじみの人物の著書から江戸時代前期の海外政策が問われました。「「鎖国」で国を閉ざしていた」と評価されていたのは40年ほど前までで、いまでは中学の教科書でも「四つの窓口」が書かれる時代になりました。

 それでは、見ていきましょう。

〇問1 語句問題 史料のタイトルは何か


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 まずは史料の著者について確定させましょう。問題では「6代将軍徳川家宣および7代将軍家継に仕えた儒学者」とあります。

綱吉の死後、6代将軍徳川家宣は生類憐みの令を廃止し、柳沢吉保を退けて儒学の師で朱子学者の新井白石と側用人の間部詮房を信任して、政治の刷新(正徳の政治)をはかろうとした。しかし家宣は在職わずか3年余りで死去し、その後を継いだ7代将軍家継はまだ3歳の将軍で、引き続き幕府政治は新井白石らに依存することになった。

 史料の著者は「新井白石」と考えて問題ないでしょう。新井白石の政策に対する評価は近年になって大きく変化してきていますが、それはまたの機会として、選択肢を見ていきましょう。

 白石の著作として教科書に書かれているのは、『読史余論』『折りたく柴の記』『古史通』『藩翰譜』『采覧異言』『西洋紀聞』です。

 この中で、史料の内容を考えてあてはまるのは自伝である『折りたく柴の記』で問題ないでしょう。正解はです。

 『古史通』は『日本書紀』の神代について書かれた本なのであてはまりません。

 『六諭衍義大意』室鳩巣『大学或門』熊沢蕃山『聖教要録』山鹿素行の著作です。

 ア、イが新井白石の著作で、資料を読めば「古史」でないことは判断できますので、アを導けるとしてよいでしょう。教科書資料によりましたので〇評価です。

〇問2 語句問題 「ロウマ人」に該当する人物

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 該当する人物がいなければ「カ」という問題です。史料では「ロウマ人の来由を問うべき由」とありますので、新井白石とゆかりのある人物が正解です。

①イタリア人宣教師シドッチは、1708(宝永5)年にキリスト教布教のため屋久島に潜入して捕えられ、江戸小石川のキリシタン屋敷に幽閉されて、5年後に死んだ。白石は、その訊問で得た知識をもとに『采覧異言』『西洋紀聞』を著した。(太字は引用者)

 正解は、シドッチです。江戸中期に教科書に出てくる外国人はほとんどいないので、シドッチはかなり簡単な「謎かけ」でした。

 ウィリアム・アダムス(三浦按針)ヤン・ヨーステン(耶揚子)はともに徳川家康の外交・貿易の顧問、ドン・ロドリゴは上総に漂着して家康によってメキシコに送られた人物です。

徳川家康は、リーフデ号の航海士ヤン=ヨーステン(耶揚子)と水先案内人のイギリス人ウィリアム=アダムス(三浦按針)とを江戸にまねいて外交・貿易の顧問とした。
④…1609(慶長14)年、たまたまルソンの前総督ドン=ロドリゴが上総に漂着し、翌1610年家康が船を与えて彼らをスペイン領メキシコに送ったのを機に(スペインとの通交が)復活した。この時同行した田中勝介らは、最初にアメリカ大陸に渡った日本人とされている。

 ケンペルはオランダ商館の医師として1690~92年に日本に滞在し、帰国後に『日本誌』を著述した人物です。その一部をオランダ通詞(通訳)の志筑忠雄「鎖国論」の題で訳したことで知られます。

 脚注を根拠にしたので〇評価です。

〇問3 語句問題 問2の人物の訊問を元にした著作

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 該当するものがなければ「カ」を選択する問題です。したがって、正解はです。問2で引用した脚注の通り、正解は『采覧異言』または『西洋紀聞』でなければいけませんが、選択肢にはどちらもありません

 アの「日本誌」の著者は志筑忠雄です。イの『華夷通商考』西川如見(長崎での見聞をもとに著述)、エの『北槎聞略』桂川甫周(大黒屋光太夫のロシアでの見聞をもとに著述)、オの『日本幽囚記』ゴローウニンです。ウの「唐船風説書」は長崎でつくられた報告書です。

 〇評価でした。

◎問4 空欄補充 朝鮮通信使への対応


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 白石の行った外交・貿易に関わる改革の一つに「朝鮮通信使への対応簡素化」がありました。

 朝鮮の通信使が家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際、これまでの使節待遇が低調にすぎたとして簡素にし、さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを「日本国王」と改めさせ②、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。
②「大君」が「国王」より低い意味を持つことをきらったもので、8代将軍吉宗以降は祖法尊重の方針から、もとの「大君」を記させた。

 「大君」と「国王」のどちらが入るかは、史料をしっかり読まないと判断できません。中盤に「寛永の比に至て、日本(3)としるしまゐらすべき由」とありますから、(3)が「大君」です。最後に「対馬守」に「日本(2)」と記させることを伝えていますので、(2)が「国王」です。

 正解は、の「2 国王・3 大君」でした。教科書本文で解くことはできますが、史料内容をしっかりと判断する力が問われます。◎評価ですが簡単な問題ではありません。

◎問5 正誤問題 史料Bについて、誤文2つ

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 現行版(山川 日B 301)では、「歴史へのアプローチ」と題した特集ページが4つあり、その3つ目が「歴史の説明 朝鮮通信使」となっています。通信使の経緯とともに、幕府の外交政策、東アジア情勢下での朝鮮側の意向などが解説され、大変興味深いページになっています。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役=壬辰・丁酉の倭乱)後、朝鮮側は日本が先に出した国書への返答と捕虜の返還などを求める「回答兼刷還使」を派遣します。第3回までは回答兼刷還使、第4回(1636年)からが「通信使」となります。

徳川家康は朝鮮との講和を実現し、1609(慶長14)年、対馬藩主宗氏は朝鮮との間に己酉約条を結んだ。この条約は近世日本と朝鮮との関係の基本となり、釜山に倭館が設置され、宗氏は朝鮮外交上の特権的な地位を認められた①(宗氏の特権とは対朝鮮貿易を独占することである)。朝鮮からは前後12回の使節が来日し、4回目からは通信使と呼ばれた。来日の名目は新将軍就任の慶賀が過半をこえた。

 誤文は、エとオでした。は「18世紀になると…」が誤り、17世紀からすでに「通信使」でした。は「幕府は…」が誤り。己酉約条を結んだのは幕府ではなく対馬の宗氏でした。

 他はすべて正文となります。正文の根拠も教科書本文にありますので、◎問題でした。

※朝鮮通信使をめぐっては、対馬藩が国書の偽造をおこなっていたことが発覚する「柳川一件」がおこります。また、通信使一行が沿道の民衆や各藩に歓迎される様子を描いた絵画、沿道各地に残る朝鮮の儒学者が書いた書などが残されています。岩波新書の『朝鮮通信使』がおすすめです。

〇問6 語句問題 日本の代表的輸入品


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 該当するものがなければ「カ」を選択する問題です。

 教科書には釜山の倭館における朝鮮貿易のやりとりについて具体的な記述はありません。ただ、長崎貿易についての説明で、「輸入品は、中国産の生糸・絹織物・書籍のほか…」「日本からの輸出品は、銀・銅・海産物などがおもであった」とあり、釜山での貿易でも同様であったと推測できます。

 オの刀剣は刀鍛冶のさかんな日本が輸入する必要のないものですし、そもそも日明貿易時代の輸出品でした。

 以上から、生糸代表的な輸入品となります。

 直接的記述ではありませんが、他からの推測が十分に可能でした。特に貿易に関して、対清貿易の輸出入品が対朝鮮貿易で逆転することは考えにくいので、脚注依拠の〇評価とします。

◎問7 正誤問題 金銀の海外流出への対応 正文1つ

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 白石の貿易政策についてみてみましょう。

また長崎貿易では、多くの金銀が流出したので、これを防ぐために1715(正徳5)年、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を発して貿易額を制限した③。
③白石は、江戸時代の初めから日本の保有する金の4分の1、銀の4分の3が貿易で海外に流出したと推計し、清船は年間30隻、銀高にして6000貫、オランダ船は2隻、銀高3000貫に制限した。

 ウが明らかに正文です。制限額まで聞かれたら脚注依拠になりますが、制限したことだけなら本文でわかりますので◎評価です。

 残りの選択肢については、すべて実際の政策ですが、白石の時代以前のものばかりです。こちらについてもすべて教科書で確認できます。

※江戸時代の外交については、相澤先生のnoteも参考にしてください。

◎問8 正誤判定 家宣・家継時代の政策 正文2つ

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服忌令が出されたのは1684(貞享元)年綱吉の時代です。

※現行版では「生類憐みの令と服忌令」という囲みコラムがつくられ、生類憐みの令が綱吉の死後に廃止された一方で、服忌令は継続され「江戸時代を通して社会に浸透していった」と書かれています。

綱吉時代です。

このいわゆる文治主義の考えは、儒教に裏付けられたもので、綱吉は木下順庵に学び、湯島聖堂を立てるとともに林鳳岡(信篤)を大学頭に任じて、儒教を重視した。また礼儀によって秩序を維持するうえからも、これまでの天皇・朝廷に対する政策を改めて、霊元天皇の悲願であった大嘗会の再興など朝廷儀式のうちいくつかを復興させたり、禁裏御料も増やし、朝幕協調した関係を築いた②。

 引用の後半部分より、綱吉時代です。この記述を見ると脚注にあるように「吉良義央刃傷事件」がいかに幕府の威信を傷つける暴挙だったかがよくわかります。

 また、の富士山噴火と諸国高役金については1707(宝永4)年の噴火について本文と脚注に説明があります。社会科学部2020の大問Ⅲ問7でも出題されましたので、以下も参考にしてください。

 以上から、残る6代家宣、7代家継時代の政策です。

白石は、財政問題では金の含有率を下げた元禄小判を改め、以前の慶長小判と同率の正徳小判を鋳造させて、物価の騰貴をおさえようとした。しかし、再度の貨幣交換はかえって社会に混乱を引きおこした。

 白石が荻原重秀の財政政策をボロクソにディスっている史料からそれぞれの財政政策の違いを問う問題が出題されたこともありました。

 オについては教科書・用語集ともに記述はありません。家継の早逝により「公武合体」と徳川宗家直系継続は実現しませんでした。

 以上で大問Ⅲは終了です。◎4○4でした。

 次回は大問Ⅳです。先住民などのマイノリティー、「#MeToo」「#Kutoo」を取り上げて女性問題について出題されました。

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