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スマホ越しにサーッと見て何か言う行為が実在の人間の生活を脅かす危険性について

牧村朝子、34歳、個人事業主、扶養も被扶養もパトロンも貯金もなし、文筆業9年生です。こんばんは。

最近、「”貧しさ”って本当はお金じゃないんだよな」と考えています。
今日はこんなことがありました。

秋刊行予定の書籍原稿のデザインが上がってきました。世の中に広く届けるものなので、わたし一人の目だけで見ては届きません。たとえば世の中にはいろいろな色覚を持っている人がいます。そこで色覚シミュレータアプリを利用して、自分以外の人たちの色覚をできるだけ疑似体験しながら、読みにくくないかチェックすることにしました。

他の人の色覚を疑似体験するアプリはいろいろ出ているのですが、細かく言えば、色覚って全人類ひとりひとり微妙に違います。もっと言うと、加齢黄斑変性や、視力の上がり下がりなど、生きている間にも視覚は変わっていきます。ということで、できるだけたくさんのアプリを使って、疑似体験の幅を広げることにしました。

そこで驚いたのが、120円の、色覚多様性疑似体験アプリのレビュー欄です。

星1レビューが付けられていました。理由はこれでした。

「有料なのに機能が少ない」 ☆1

わかります。120円は確かに、経済状態によっては、1日分の食費にもなりうる額です。大きいお金です。でも、120円ですよ。加齢黄斑変性、白内障、猫の視覚、犬の視覚、そういう視界がスマホ越しに疑似体験できるアプリをプログラミングして配信し、Apple Storeはじめ配信サイトにも手数料を支払った上で、無広告で、120円。プログラマーにも生活がありますよね。そうした他者の生活を想う余裕がないところまで追い詰められるということが、「貧しさに追い詰められる」ということなのだと思いました。

こういった「無料が当たり前」の空気のまま進んでいくと、どうなるか。

無料のものでお客さんを集められる資本がある事業者に、あまり資本のない事業者、たとえば個人クリエイターが太刀打ちできなくなります。

「無料のものでお客さんを集める」という行為には、SNS利用者全員が関わっているんですよ。

SNSがなぜ無料で使えるかいうと、「利用者によって投稿されたものをもとに人が集められ、利用者データをもとに広告が配信されているから」です。

わたしは、考えてみた結果、LINE/facebook/Instagramを削除、現在はnoteとTwitterのみ、使っています。引き続き考えながら。

また、文筆業者としてものを作る上で、有料公開と無料公開をうまく使い分けることも考えるようになりました。個人事業主として、「ギャラそんなに安いんですか?」じゃなくて、「そのようなご予算ならば足りない分を稼ぎ出すために書籍販売の時間もいただけますか」とかね、雇われ根性ではなくて、「仕事相手と一緒に作る」意識も持つようになりました。

文化人枠、ギャラ安いんです。

パブリシティと言って、「あなたの作ったものの宣伝になるから無料で出演してね」というご依頼もあります。

ギフティングと言って、「あなたにものを無料であげるから気に入ってくれたらSNSとかで褒めてね」というご依頼もあります。

またわたしこと牧村朝子は何ていうかソーシャルグッド枠というか、「社会のためにやっているLGBTの人なんでしょう?」と思われている節があり、すごく丁寧な言い方で「LGBT当事者が声を上げる場所を作ってあげましたからね、無料で出させてあげますよ」という意味のことを言われたこともありました。何だろう。間違ったチャリティ枠というか。

無論、パブリシティやギフティングや偽チャリティを一概に責めるつもりはなくて。


ただ、文筆業を営む個人事業主として、いつも危機感は抱きます。

「こういう無償依頼を受け続けていると、無償でも書けて話せる経済的余裕のある人しか発信者の位置に立てない世の中になるよな?」

書いたり話したりして発信することが、容易になっていく世の中です。「書いたり話したりするくらいで金もらえていいよな」って言われたり書かれたりすることもありました。

でもやっぱりね、書いたり話したりする技術、倫理、業績というのは、プロの領域を継承していかないと続かないものがあるんです。言い換えれば、書いたり話したりすることで生計を立てている、書いたり話したりすることに人生を懸けられる人が、「これまで」を受け継いで「これから」にパスしないと続かないものがあるんです。

わたしは、属さない個人として、歩き、感じ、聞き、話し、考え、書き、伝えることに人生をかける覚悟です。それにあたって、人の人生を取材させていただいているのだ、文字通り「材」を「取」ってものを作らせていただいているのだということを自戒していきます。

「なんか見た」でも「材」を「取」っている

ジャーナリストの世界では、「“取材にご協力ください”というのは失礼にあたる」と考える人もいます。「材」を「取」らせてください、って言っているんだから、敬語になっていないでしょ、と。

わたしはSNSの世界での「なんか見た」というネットスラングに寒気がします。「なんか見た」とは、SNSで話題になっていることに「材」を「取」って、直接的に本人と話さないまま、自分のフォロワーたち、同意見の人たちと違和感で共鳴し合う時に使う言葉だと理解しています。

書いたり話したりすることが容易になった世の中だからこそ、「同意見の人たちに共感してほしい」という欲望とは慎重に向き合いたいものだと思うんです。

タイトルだけで読んではいない記事。
中身を見ていない有償コンテンツ。
ツイートを見ただけで行ってはいない店。
ハッシュタグで流れてきた全文読んでない法案。
そういったものに対して、「祭り」に参加するように騒いでいないか。
「これってなんか嫌だよね〜」という共感のネタとして消費していないか。

誰からもアクセスできる場所に書く前に、考えてほしいんです。できれば自分だけの日記アプリが一番、「お仲間同士で安易に共感する」ことを避けて自分で考えられる場所だと思います。けど、一人で考えるのが得意じゃない人もいる。そういう場合は公の場所じゃなくて、ちゃんと仲間内のコミュニティでクローズに書いて、話し合って、知っていって、それから自分の言葉にたどり着いてほしいんです。お仲間内じゃない、誰でも見られる公の場で、「なんか見た」から「なんか言う」前に。

わたし自身も、旅・言語・セクシュアリティを書く上で、「人の生活と生存がかかっているトピックなんだな」と、改めて思っています。

言い方が難しいのですが、誰とも「お仲間」にならないように気をつけています。

わたしが誰かと「お仲間」になると、自分達の利害のためにものを言い始めてしまうと思ったからです。

ですから、「あそこの団体からお金をもらっている」だの、「あいつを支持するならあれ派なのか」だの、「最近はあそこに加わったんだな」だの、「これに署名しなかったからあいつは○○嫌悪者だ」だの、そういうことを言われるの、うんざりします。まあ、でも、そういう人は大体SNSや匿名掲示板でコソコソやっているので、見ないようにします。その人が人を適当な噂で叩いて共感を得ようとすることをやめて、自分の人生に向き合えるように、勝手に、遠くから願いながら。

これからも、無料のものでできること、有料のものでできることを考えます。

無料ならば、それがなぜ無料なのか、資金源に注意し、特定団体や構造に囲い込まれることを避けます。

有料ならば、どなたからどういうお金をいただいているのか、そのおかげで無料とは違うどういう価値を提供できるのか、「お金のある人だけが救われる」みたいな構造に加担してしまっていないかを、常に自問します。

誰もかも生活と生存が大変な中、お金と言論の関係について今日も考えています。仕事で扱っているトピックに関連して、家畜窃盗事件のことを考えていて、次の言葉に行き当たりました。ぜひ全文読んでほしいのですが、端的に説明します。外国人技能実習生制度下における不当な低賃金などを背景に、生活が成り立たなくなり、家畜窃盗事件に関わった人が、取材者に対して言った、と、取材者が書いている言葉です。


「何かあれば私の人生、壊れる。あなた、その責任は取らないし、取ることもできない」


なんか見て なんか言う というのは、それだけの重みを持つことです。

スマホ越しにサーッと見て何か言う行為には、実在の人間の生活を脅かす危険性があります。

応援していただけるの、とってもありがたいです。サポートくださった方にはお礼のメッセージをお送りしています。使い道はご報告の上で、資料の購入や取材の旅費にあて、なにかの作品の形でお返しします。