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Vol.2の「テープ起こし」の話を読んだ友人から、「僕は録音もメモもしない」というコメントをいただき、改めて私が録音とノートによる記録をなぜ行うのか、ということについて考えてみた。今日書くのは取材のその場での価値だ。

取材を受ける人は、多少の覚悟を持ってその場に現れている。秘めておきたい部分まで丸裸にされるリスク。自分の考えとは異なる伝え方をされるリスク。それが、場合によっては世界中に流布されるリスク。本来、全ての会話はそのリスク下にあるのだが、何となく会話は「流れていく」し「相手の様子に応じて言い直しが効く」ような気がしている。(実はむしろ原稿の方が、校正段階で聞き手がどう理解したかを確認し、赤字を入れて建て直しが効くかもしれないのだが。)何はともあれ、人はそんな緊張感をもって取材に応じる。あるいは「うまく答えられなかったらどうしよう」という、取材の場そのものに対する面接のような緊張感もある。
いや逆に、人によっては「今こそ自分を伝えるチャンスだ」と思う。

それを少し、緩和したり利用したりするのが、テレコでありノートであると思う。
なお録音に関しては、今から20年近く前になるが、編集部の先輩があるファッション界の大御所インタビューのあと、「原稿が意図と異なる」と大目玉を喰らっていて、その時の先方の言い分に「取材中、録音もしないで」と言っていたというのをたまたま漏れ聞いた。録音をしていないことで取材中終始「いい加減に聞いて内容をいいようにでっち上げられるのではないか」と疑心暗鬼になる人もいるのかもしれない、とそのとき感じたことが忘れられない。

録音機をオンにし、ノートを開いてペンを持つ。その作業を節目に、ある人は「ここからは間違ったことは言えない」と脇が締まるかもしれない。「ここからはスムーズに会話を続けなければ」と緊張するかもしれない。「ここからは私が主役ね」とテンションが上がるかもしれない。いずれにせよ、この「幕開け」の作業を境に、私と相手とは、限られた時間内で一つのゴールにたどり着くための会話を始める。つまり、あなたと私のパーソナルな会話ではなく、その先に企画があり、媒体があり、読者がいるという会話。
ちなみに、取材に慣れていない人やこの作業を前に身を硬くする人、あるいはセンシティブなテーマの場合、「一応録音はしますが、文字になってみると違うなと感じることもありますし、校正で直していただけますので、間違ったこと言っちゃってもぜんぜん大丈夫ですので、この場では一旦気にせずざっくばらんにお話しください。データも終わったらすぐ消しますので」と補足したりするようにしている。

インタビュー中、「今の話はこのテーマにおいてとても新鮮/重要だ。読者に有益だと思う」というメッセージを伝えるために、私は熱心にペンを走らせることがある。あるいは、「今言ったことは、同じ経験をしていない私や読者には伝わりにくい。もう少し言葉を聞かせてほしい」という思いを伝えるために、相手が言葉を重ねていても、ペンを止めてじっと相手の口元を見ることがある。コンフィデンシャルな話題に触れているときには、「私はそれについては漏らしません」という契約を込めて、ペンを置いて見せたりする。相手が言葉に詰まれば、急かさないように、一緒に考えるように、ノートを眺めながら静かに待つこともある。「私なりにあなたの一つの核を見つけました」という思いを込めて、「あなたの一番の願いはきっとここにあるんですね」と言いながら、メモした単語をぐるぐる丸で囲むことがある。「最初に言ったあの言葉が今のエピソードで繋がりました」という思いを伝えるために、「なるほど、そういうことだったのですね」と言いながら前のページに戻ったり、あるいは逆に、思考の変化を感じたとき「当初は○○を第一義に思っていたのに、このとき違う選択をされたのは…」と言いながら、ページを戻ることもある。私のノートとペンとともに、相手の思考も、立ち止まったり速度を速めたり、過去に遡ったり現在に帰ってきたり、しているかもしれない。そうであればノートとペンは、コンダクターのような働きをしていると思う。

時系列で思考を追ったり、重要箇所を見つけたりするのは、帰宅後にノートを眺めながらゆっくり行ってもいいことだが、相手と一緒に作り上げることができるのは今のこの瞬間だけ。だからこそ、共同作業の上で重要な「呼吸を合わせる」役割を、ペンとノートがしてくれているのだ。

さて、そろそろ取材も終盤。「もうあなたを緊張から解放しますよ」、あるいは「言えなかった本音もここからは言って大丈夫ですよ」という意味を込めて、私は録音機を手元に引き寄せ(止めてはいないことが多いが)、ノートを閉じながら個人的な感想を述べたりする。それは私が聞き手ではなくなり、対等な関係になった合図でもある。すると相手は、インタビューテーマ内での話の優先順位を意識するスイッチをオフにして、今語りたい言葉を発してくれることがある。そこからの話は、心で聞く。そこで聞いた本音は、原稿に反映されるかもしれないし無関係かもしれない、でもその底に流れることは間違いない。

そんなこと、どれほどの人が感じ取っているか分からないが、それでも「気」のような「波動」のようなものを軽んじてはいけない、と思う。ちなみに私は、だから毎月何冊も消費するものだが、少し見栄えのいいノートを使っている。ベルベットやラメの表紙だったり、インポートの上質なブランドだったり。書き味云々以前に、サブリミナル的にいい存在感を放つノートを使っていたいのである。こうしてみると、録音機と、ノートとペンに、私は支えられている。桃太郎の犬・猿・雉のように。

さあ、明日も彼らを携えて、とっておきの話を聞きに行こう。

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