見出し画像

女子校生だった話(番外・スカート陰翳)

 いきなりの番外。
 第1回の話はこちらです。

 男子はズボン、女子はスカート、そんなジェンダ論の押しつけを撥ね退けたいひとの声を聞きながら、何が違うんだろう、とぼんやり悩む。私は女子高生だった。そして女子校生だった。中学と高校の一貫校は女子校だった。

 制服はスカートだった。
 ジャンパスカートで、喩えるならアニメの新世紀エヴァンゲリオンに登場する中学生の制服を、駄目な感じに改造して駄目な感じに染め直した形が似ている。ブラウスの釦と釦のあいだがぱっくりと開き易く、ジャンパスカートの上身頃は前面が半分に分かれているので、胸の形が分かり易い。
 でも別に嫌いじゃなかった。セーラー服やブレザの制服に憧れたが、スカートを揺らす風を憎んではいなかった。同級生と交わす不平のメインは「この制服は夏は暑く冬は寒い、やってられない」みたいなことになる。ちなみにこの制服は今は違う形になったらしい。

 少女、という記号を使うのは愚かではないのか、と大滝瓶太氏に評された(ざっくり云うとそう云われた)が、私は芒としていた。

 だって彼女たちは(私は……、)(私たちは……、)スカートを穿かなければ愛されなかったのだから、スタートラインからして違うではないか。愛されなかった、というのは、【そこに居て良いよと云われる為に】スカートを穿いていたということだ。

「お嬢さんらしくしなさい」と云われ、髪を伸ばし、スカートを穿き、ワンピースを着ておおきくなった。中高の校長の口癖は「レディになりなさい」だった。校門にはアンネ・フランクの薔薇が咲いていた。アンネの薔薇は少女の象徴ではなく、クリスチャンであるからだろう。しかし時代錯誤と云われても仕方がない。「私が幼い頃はコンヴィニなど無かった」と、くだを巻く、年上の世代と同じように受け止めて欲しい。つまり年代によって圧迫はそれぞれだということ。

〝私たちはスカートを穿かなければ、存在出来ない。〟
『Lost girls calling.  』に登場する、携帯電話も持っていない女子高生は、たぶんそういう時代の遺物なのだと思う。

 時は流れるんだな、と思う。
 物事は流転するんだな、と思う。思想も然り。

 LGBTQで云えば私自身はマイノリティだ。
 だからと云って制服にスカートを強要しない話題に溌剌と参加出来はしない。記憶が粘着質に私を咎める。愛されなかったということは、あなたを愛さないということではないのに、過去が刺さって咽喉が詰まる。私は存在を許される為にスカートを穿いていたのに、あなたにとって「違和感」ってなんなんですか? 私は過去に囚われて出てこられない。何歳になったら闊達になれるのか。加齢という現象はその点絶望しか感じさせてくれない。

 上手く云えない、それだけだろう。

 漫画版『Lost girls calling.』の舞台はクリスチャンの女子校である。
 短篇集『ミルチリカル』(「Lost girls calling.」の原作を収録している)に登場する少女たちは、一貫して自らの女性性を疑わない。生命線はそこには無いからだ。
 今、ジェンダ論で闘っている方々を痛め付けることなく、ただのいつかのノスタルジアとしての彼女たちが居れば良いと思う。現代の誰をも苦しめることなく。

 そして現代でも〝女子〟でいないと愛されない子どもの為に。

 いとしい、について「かわいい」と表現してしまうことについては、罪ではないと思っている。「可愛い」を呪わないで欲しい。そして呪われないで欲しい。それが容易くなくとも。呪われているひとが呪詛返しをしているコミュニケイションはとても非建設的だ。男女問わず。

 上手く云えない。いつだってちゃんと口が利けたことなんて無かった。これからもそうだろう。だから物書きなのだなどと云うのは僭越だし、そうではない、至極平凡な人間だ。髪は長く、スカートしか穿かず、色んな女性性の記号を身に纏った、平凡な。

 色んなひとに洗脳されながらあなたたちも自分に都合のいい恨みだけを良いように喰って、都合よく批判してください。
 私にとって、文章は恨み言の反転でもある。これはスカートの話ではなく、漫画本稿に続く。

   #

 あの頃、制服の下にトランクスを穿いていた、あなたたちは元気ですか? なかなか音沙汰も無くなって、淋しいです。

   #


   #


サポートしていただくと、画材・手工芸材などに使わせていただきます。もっと良い作品を届けられますように。