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ホロコーストは人種問題か否か


この事件

ですが、こういった論調や批判の仕方については違和感があり、かえってユダヤ人差別問題をわかりにくくしてしまうのではないかと思います。批判をした人たちの一番のボリューム層はユダヤ系の人たちと推察しますが、全員がこの事件を「単純な差別発言と無反省な発言」だと解釈しているのならばそれは誤解では無いかもしれないけれど生産性も無い、という話です。

結論

差別問題はセンシティブであり、僕の立ち位置をはっきりさせておかないと誤解されかねないので先に結論を。

  • ユダヤ人差別やホロコーストが重大な人権侵害であることには疑いの余地はない

  • 間違った認識を持った人を徹底的に叩いて論壇から追い出すよりも、どこが間違っているのか数人で議論した方が問題点をはっきりさせられる

  • ちょっとでも間違っている(もしくはそう見える)発言を禁止することは、間違っている人を放置することであり、かえって「隠れ差別主義者」を増やすことになる

  • そもそも「人種」という言葉には大別して3つの意味合いがあり、ゴールドバーグ氏の発言も完全に間違っているとはいえない

  • 間違った発言だとして迫害しても問題は解決しない

差別を許さないことと、過ちを許さないことは違う

そもそも彼女は、ホロコーストが正しいといった肯定的発言はしていません。論点は「ホロコーストが人種問題である?」YES/NO問題でした。彼女に聞いてみないとなんとも言えませんが、確かに人種問題ではないという見方もできるのです、特に生物学的な意味で。

彼女は間違っているかもしれません。でも、「どこが間違っているか、なぜ間違っているか」を議論しないまま、差別だ!といって追い出すのは生産的ではありません。記事を見る限り、「人種」の定義についてすらきちんと議論していないようですから、到底フェアな論戦ではないと思います。

差別は許されるべきではありませんが、過ちすら許さないというのはあまりに傲慢で、自分がまるで過ちを犯さないかのようなシンプルに危険な傾向ではないでしょうか。

人種とは何か

そもそも彼女は、
「正直言って、ホロコーストなんて人種問題じゃないわ。あれは人種(の問題)じゃなくて、人間の人間に対する非人道的問題よ」
と発言したとして最初に炎上しました。結局鎮火にも失敗しましたが、そもそも炎上するほどの発言ではないかも知れないのです。

人種という言葉はしばしば使われますが、その文脈によっておおまかに3つあると思います。

1、肌の色に着目した人種
2、民族や文化に着目した人種
3、生物学的な人種

先に3を。生物学的には人種というもののきちんとした定義はありません。肌の色、という形質と、別の遺伝的傾向に統計的な関連はありますが、それは全体の傾向であり、容易に混ざるものです。したがって、生物学的には「ユダヤ人差別は人種差別か?」という文言は意味のない問い、あるいは問い立て自体が間違っていることになります。

次に1。彼女はこの定義を重視していたようです。肌の色は最も人目につきやすく、差別の指標にもなっていました(今でもありますが)。この定義を採用するなら、白人であるドイツ人が同じく白人に近い肌色を持つユダヤ人を差別したことは人種差別ではありません。

次に2の定義。民族の違いを人種の違いと関連させるなら、ユダヤ人差別は人種差別になります。なぜなら、ユダヤ人は「ユダヤ民族」であり、ユダヤ教に改宗すれば元が何人であろうともユダヤ人だからです。ユダヤの人たちにとっては、確かに人種差別と感じるかもしれません。

つまり、1の定義に従えば彼女は正しく、2の定義に従えば彼女は間違っており、3の定義に従えば人種という言葉を議論に上げた全員が間違っています。

人種という言葉そのものが大変あいまいなのに、お互いの言葉の認識の違いを議論もせず、ただ単に差別主義だとして彼女を攻撃するのはいささかやりすぎに思います。

これでは解決しないではないか

このように、お互いを理解する「議論」の場を設けず、ただ批判するのでは何も解決しません。むしろ、今後ホロコースト問題を議論することすら、テレビ局は尻込みするようになるのではないでしょうか。

「差別」という言葉には圧倒的な「悪」というニュアンスが含有されており、これを叩くことは自身の正義を強調する自己実現となってしまいがちです。人は相手が悪だと認識すると極めて残酷になり、ときには仕事を失うことになるまで叩くのをやめません。

批判に終始して問題の本質を議論する姿勢が見られないならば、このテレビ局も視聴者も差別についてより深く考える機会を失い、「差別主義者を叩いていい気分」になっておしまいです。残念です。

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