苺のショートケーキは灰色に見える

子どもの頃、誕生日に食卓に並ぶ、大好物のショートケーキ。それが私の目にはいつも灰色に見えた。「おめでとう」ではなく、罵声が飛び交う家庭の中で、何度も生まれてきた意味を探した。「大人になれば親のありがたみが分かる」と酔っぱらいながら吐く父親を見て、お前に感謝することなんて一生ねえわと思った。

ゴミ箱にゴミを捨てたら怒られる。洗面所に1本でも髪の毛が落ちていたら暴言を吐かれる。お風呂に30分以上入っていたら怒られる。トイレの中にある扉を夜に閉めていないと怒られる。そんな謎ルールがあるのが、我が家。訳も分からず否定されるのが我が家。そこでなくなっていくのは自信と自分自身。

頭に浮かぶ、いくつもの「私が生まれてきた理由」と「存在していい理由」をくだらねえなとかき消して、あぁ、どうでもいいだな、この命って何度も思った。腕にある無数のリストカットも精神病で薬漬けになった経験も、カウンセラーに「君みたいな人、何で生きてるの?」って言われたことも、どれも痛かった。自分に価値を見出したいと思うことがおこがましいと思った。

母が誕生日にくれるのは「神様がくれた大切な命」なんていう、障害があること前提での祝福だった。違う。そうじゃなくて、ただ単純に「生まれてきてくれてありがとう」って無条件な愛を誰かに言ってほしかった。
あの人たちに言ってほしかった。

その言葉を初めて他人の口から聞いたのは、大人になってからだった。この人なら、心をゆだねたいと思えた。扉を閉めた心を開こうって思った。頑丈なカギも外した。恋でも愛でも執着でも依存でもなんでもいいから、とにかく側にいたかった。

でも相手が私に見せていた顏は、すべて偽りだった。嘘だよねって思いながら、信じているフリをする自分が情けなかった。「誓うよ」「本当だよ」「愛してるよ」の心のこもってない3点セットにすがった。

結果、残ったのは恋愛恐怖症。独身という嘘は痛かったけど、それ以上に苦しかったのは「障害者仲間」という嘘。お金だけじゃなく、心の中の純粋できれいなものも取られた気がした。

人は嘘でいくらでも泣けることを知った。
どれだけ想いを伝えても、届かない気持ちがあることを知った。
憎いのに、愛が消えない苦しみを知った。

穏やかな恋。それに身を任せていても、どこかでふと頭をよぎる。初めて「生まれてきてくれてありがとう」って言ってくれた、あの嘘つき。私の心を根元からさらっていった人。あなたはどんな気持ちで泣き、笑い、その言葉を吐いたんだろうか。

日記の文がいつも泣いてる恋だった。その端々から、愛されたい苦しさがにじみ出てて。今でもあの日々を、あの記憶を思い出す。トラウマを植え付けた相手を、まだ愛しく思っている。そんな自分に疲れる。人を想うことに疲れる。

相手の住所を聞くこと。職場を尋ねること。休日の予定を聞くこと。自分から会いたいって言うこと。そのどれもが禁忌になったまま、次の恋に向かう。愛や恋を諦めながら、恋愛をしようとする。寂しさを埋めようと、心の拠り所を得ようとして。

灰色のバースデーケーキに思い浮かべるトラウマは、あの頃よりもさらに増えたね。最初から欠陥品だった私だから、誕生にまつわることにはきっといいことがないのだろう。誰の何を信じればいいのか。ずっと心の中にある疑問。来年は今年よりも、おいしいケーキを食べたい。ちゃんと白い色をしたショートケーキが食べたい。

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