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「それぞれの1月17日」

その日はとても静かだった。
夫はその日朝一番の飛行機で、鹿児島に出張に行くと言ってもう家から出ていた。
私は暗いうちから起きて出張の用意の最後の点検を済ますと玄関先で送り出し、寝顔が可愛い息子の横顔をぼんやりと眺めていたと思う。

その時、ゴゴゴゴゴとどこから湧いてきているのか想像もつかない地響きが鳴ったかと思うと、今まで味わったことのない激しい縦揺れに見舞われた。

「なに!これ。やだ、地震」
意味不明の言葉を繰り返し、ただひたすらに息子の頭に覆いかぶさり、比較的頑丈そうなパイプベッドの下に潜り込んだ。

5時46分
阪神・淡路大震災だった
私がいた場所は京都の南区、分譲マンションの3F。
震源地から遠く離れた場所とはいえこのあたりでM5を記録した。
TVを付けるとまだ詳細がわからないけど、神戸あたりで地震が起こったということらしい。

何人かの友の顔が浮かぶ。
その心配を吹き飛ばすかのような余震が何度となく続く、今まで体験したことのない危機感。1歳の幼子を抱えて、いざというとき私はどうすればいいのか、ひたすら頭の中で最悪の場合のシュミレーションが繰り返される。
余震におびえながら、有り合わせで万が一の時のために避難用具になりそうなものをかき集めだした。
息子は事情が分からないなりにも母の必死さが感じられたのだろうか、いつものように泣いて駄々をこねず、母の様子をぼんやりと見入っていた。
「大丈夫よ、何も心配いらないから。ぽこにゃんはここにいるでしょう」
息子のお気に入りのぬいぐるみを持たせると、やっと笑顔を見せてくれた。

程なくして乗る直前に高速道路が封鎖され、敢え無く戻ってきた夫が帰ってきた。
本人はリムジンバスに揺られていたため、その揺れのすさまじさを体感できず、事の重大さがまだわからなかったからなのか
「地震が起こったぐらいで」と、
戻されたことに半分怒りながら帰ってきた。

テレビのニュースを食い入る様に見ていたかと思えば、
「今、無理やりタクシーにでも乗って下道走れば
飛行機で鹿児島までいけたのに」と残念がっている。
男と言うものは、一旦指令を受けると、サイボーグのように目的をなし得るまで、ぜんまいのネジを巻き続けたいものらしい。

とうとう行くことを諦めると、今度は会社の備品が飛び散って大変なことになっているからと急いで会社の様子を見に出て行った。

そこに、家族への暖かい言葉は聞かれなかった。
程なくして同じ病院で生まれた子供を持つお父さんが、心配して様子を訪ねてきてくれた。
お互いの安全を確認するとともに、水を使わなくても大丈夫なシャンプーを届けてくれた。

いざとなればキャンピングカーのように改造した軽自動車があるから発電もばっちりで心配いらないからと不安がる私を励ましてくれた。
おかげで嫁さんから一目置かれるようになったと、軽口をたたいて笑わせてくれて、やっとそこで安堵の涙が出た。

それから状況を知るにつけ、私が浸った感傷など話のネタにもならない程想像を絶する惨事が明らかになってきて、ただ、ただひたすら祈りを繰り返すしかなかったが、

こうして息子が27となり、改めてこの日のことを思い起こすと、その時未練なく会社に出向いていったその背中ばかりが思い出される。

半分あきらめと、苦笑交じりの笑みを混ぜながら、わが身と子どもはどんなことがあっても私が守りきる、そう決心したあの日だった。

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