自分を捨てるということ。
「目指すチームの状態になるために、伊東くんはチームになにができるかな」
そんな質問をされて、ぼくは答えに困った。ぼくは、チームになにができるのだろう。
その問いは、ぼくの行動を無意識に支配していた問いを明らかにした。
「まわりから、どう思われるか」だ。
自覚はなかった。チームプレーが好きだと思っていた。
だけど、振り返ると、自分の仕事さえすれば評価されるはずだと、自分の業務に固執していた。勘違いしていた。
業務が、まるで自分の人格の一部のように捉え、自分が一番わかっているようにも思っていた。
人にアドバイスを求めることも、助けを求めることもあまりなかった。まわりのアドバイスを聞くことは、自分でやったことにならず、全て自分がやらないといけないと思っていた。
気がつけば、まわりに興味を持っていなかった。ぼくはこれ、誰かはそれ。一緒にやることはあるかもしれないけど、別の仕事だ。ぼくの範囲に入ることもないし、他の人の範囲に口出しすることも必要ないだろう。そういう行動を取っていた。
本やセミナーで知ったり学んだりしたことを共有することにもハードルがあった。共有した結果、誰かが先に成功することを恐れていた。自分ができずに誰かができるのを見るのが怖かった。認めたくなかった。誰にも渡したくなかった。持っていることを評価されたかったのかもしれない。
共有することで、自慢気にみえたり、上から目線にみえるような姿にはなりたくなかった。知識の浅はかさを見透かされたくなかった。浅い知識を共有する意味もないのではないかと思っていた。
問いで浮かび上がったぼくの態度は、ぼくがそうなりたくない姿そのものだった。
チームのためになにができるか。ぼくは、人と一緒に仕事をしているのだ。人と一緒に、目指す方向に向かって歩んでいるのだ。
ぼくのちっぽけなプライドに、なんの価値があるのだろう。
もっと、もっと、目の前の人、目の前の仕事に対してできることがあるのではないか。
なんだか、いままでの自分がちっぽけに見えてきた。傲慢で嫌なやつだなと思えてきた。でも、許せるようにもなってきた。
昨日一昨日は、連日フットサルだった。大量の汗をかき、身体の水分が、全部入れ替わったようだ。
昨日までの自分とは違うという意識が強くなった。今まで、無意識の「どう思われるか」に支配されていたぼくの思考も、今日も同じである必要はないはずだ。
チームのためになにができるか。目の前の人のために、なにができるか。まずは、簡単なところから始めようと思った。
まずは、メールの既読スルーをやめること。なにかレスポンスをすること。それを快諾するか否かは、返信しながら考えるか、返信したあとに考えよう。スルーしてしまったり、やること忘れてしまったりすることは、まずは許そう。
知ったことや学んだことは、シェアすること。最悪、感想を一言だけでも伝えるようにする。
まずこの瞬間からと、さっそくメールに「ありがとうございます」とだけでも返信をし始めた。すると、気持ちも落ち着いた。
簡単なことから始めようと宣言したとき、「まわりにどう思われるのか」の制限が、するしないの、白黒、ゼロイチ、出力の有無にあったのだと気がついた。
「まわりにどう思われるのか」という制限は、出力の仕方や伝え方、見せ方に使えばいいのだ。
まわりを気にしてなにもしないよりは、なにかすることを工夫すべきなのだ。
『自分を捨てる技術』を以前読んだことがあった。いい本だと思いながら、今になってやっと実感をもって書いてあったことがわかってきた。
明日からも、楽しむぞ!
読んでいただき、ありがとうございます!とっても嬉しいです。 いただいたサポートは、読書と映画に使いたいと思います。