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森喜朗氏の発言と、 #わきまえない女 に感じる不快さ

森発言を聞いた時、私は「これは問題になるだろうな」と思った。怒った訳でも不快になったわけでもない。あえて正直にいうなら、面白い、とすら思った。

なぜなら、森喜朗という人は、平成生まれの人間にとっては「失言」の象徴的なアイコンであり、そのアイコンがまさに期待された通り「失言」をしたからだ。

森喜朗氏というのは、政治家の中でも飛び抜けて失言が多く、理解し難い精神構造をしている人間であり、いわばそれは、ドナルド・トランプ元大統領の発言に「また言ってるよ」と感じるようなレベルで、どこか日曜日のサザエさんや笑点を思わせるような「お約束感」すら漂うほどだ。


その後、多くの女性が怒りの声をあげ、 #わきまえない女 というハッシュタグが出来たときも「女性怒るだろうな」と思った。つまり、私が主体的に怒ったのではなく、女性(あえて言うなら、一部の女性)の怒りを想像したのである。

私はなぜ怒らなかったのか

私はなぜ「怒らなかった」のだろう。これが今日の問いだ。一つには、これが女性に向けられた言葉であり、男性である私に向けられた言葉ではない、という点がある。

「日本人は馬鹿だ」という言葉に私は怒るだろうが、「○○人は馬鹿だ」という言葉を聞いたとして、私がそれに対して同じレベルの怒りを感じると思えない。

同じように、森発言を本気で怒っている男性よりも、「また森元総理がなんか言ったよ」「あの人も懲りないな」という感覚の男性が、ほとんどだと思う。

結局のところ、私はこれを自分につながる問題ではないと思ってるのだ。自分が侮辱されたわけでもなく、自分に責任があるわけでもない。だから、森喜朗氏がどれほど批判されようが私の感情は誰かが批判されている、という以上の感想を持たない。

かくも不快な #わきまえない女 という言葉

しかし、そんな私が、#わきまえない女 というハッシュタグを見たときは、多少の居心地の悪さを感じた。

私は多少なりともフェミニズムに賛同をしている。

それは、Twitterなどで女性の生きる現実を様々な形で目にしているからである。そういう「血の通った話」の積み重ねが、私の感情のアップデートを多少なりとも促しているのだと思う。

実際のところ、Twitterがなければ私はもっとろくでもない人間になっていたのではないか、と思う。それでも、フェミニズム自体の存在が愉快なものかというと、そうではない。どちらかというと感情的には不愉快なものである。

#わきまえない女 というハッシュタグもまた、大なり小なり自分に罪悪感を植えつけ、肩身の狭い思いをさせる。


自分の責任なのか?

森喜朗氏という失言の総合商社のような人が批判されているうちは、森氏の問題として片付けられても、それが男性一般の話として取り上げられると、自分の行いを考えないわけにはいかなくなる。

森喜朗氏の「女性は喋りすぎる」という発言に客観的に根拠はなく、それ以上に学術的には誤りであることは明確になっている。

他方、「男性の方が犯罪率が高い」「男性の方がレイプの確率が高い」というのは、単純で客観的な事実だ。

しかし、二つを比べれば後者の方が私にとっては感情的には不快である。これは騙し絵のようなものだ。二つの線が「同じ長さだと知っていたとしても」、私には「違う長さに見える」のだ。

主観的視点から見て、男性であることで特権を得ているようには思えなくても、客観的には我々は社会において得をしている。しかし、森喜朗氏を批判する男性の声よりもずっと、そこから男性自身の振る舞いや社会構造を批判する人は少ない。

Twitterなどで見ていても、男性は「性別」より「年齢」に着目して、当事者性を回避しようとしているように見える。気持ちはよくわかる。感情的な意味で言えば、失言を繰り返す元総理の発言で、なぜ自分の振る舞いを見直さなくてはいけないのか、と思う。

しかし、「森喜朗氏」個人や、「年配の男性」だけを批判するのではなく、「男性社会」その物を批判するものがいるとき、我々はそれを切り離して語ることができなくなる。

これは構造の話であり、例えば上場企業の役員から国会議員、地方の首長に至るまであらゆる場所で男性が多数を占めているという社会の問題であるからだ。

これは客観的な数字によって証明されていて、少なくともあなたが男女平等という近代国家の大原則を支持しないと明確に主張しない限りは、これを否定する理屈は存在しない。


男性もつらい?

よくこういう議論になると「男性も辛い」という話になる。

一般論としては誰の人生も辛い。男性も辛いのはその通りだ。王子として何不自由ない暮らしをしていたゴーダマ・シッタルダが出家したように、どんなに恵まれていても苦しいものは苦しい。

しかし我々が求めているのが社会構造の変化ではなく救済だとすれば、それは学問や社会運動が解決できる領域ではない。

社会構造の変化が必要とすれば、それはやはり男性社会の変化が必要であり、性としての女性に責任があるわけではない。


我々は基本的に感情ではなく理性で生きている。仕事で腹の立つ人間がいても殴ったりしない。鬱陶しくて暑苦しいスーツを着ていても、やおら道端で脱ぎ始めたりしない。

女性に対してだけ、無制限の自由が許されると思うのは、単に傲慢なだけだ。感情に任せて好きなことを発言していると、いずれ自分がずれていく。怒られているうちはいい。しかし、いずれ誰もあなたを相手にしなくなる。

それよりも「いまの世の中は大変だ」と心の中で思いながら、それに合わせていく方がよほど合理的である。

振る舞いが変われば社会も変わり、常識も変わっていき、やがてそれが自然なこととして受け入れられるようになるかもしれない。


不快さと生きるということ

フェミニズムは私にとって、多少なりとも不快である。訳知り顔で当事者であるように語るつもりはない。私は当事者たりえない。

私にとって多少不快であるということは、私よりも保守的な価値観を持っている人に取ってはもっと不快だろう。


しかし、私が(あるいはどこかの男性が)不快であるかなんて、誰も気にする義理はない。正しいことは正しいのであり、正しいことを発言するのに誰かの感情を気にする必要はない。

森喜朗氏の発言は我々の問題であるという事実もまた、不快である。私は森喜朗氏を支持したことも投票したこともない。何の責任もない、と言いたい気持ちはある。

しかし、残念ながら我々はその一部である。だから、居心地の悪さを抱えながら生きていくほかない。

自分は感情的ではなく理性的であると認識している男性であれば、この文章に書いたような結論にたどり着くのは、当然と言えるのではないだろうか、と信じて筆を置くことにする。


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