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ヨコハマトリエンナーレ2020

今年は芸術祭の類がことごとく開催中止もしくは延期となっているなか、大きな規模のものとしては珍しく(若干会期はズレたようですけれども)開催の運びとなったのが、この「ヨコハマトリエンナーレ2020」でした。

「AFTERGLOWー光の破片をつかまえる」と題された今回のヨコトリ、総合ディレクターを務めたのはラックス・メディア・コレクティブ。インドを拠点に活動するアーティスト3名によるチームです。
彼らの作品はこれまで芸術祭で何度か拝見していたこともあり、今回のヨコトリがどんなものになるか、非常に楽しみにしていました。

ちなみに、これまで見た彼らの作品はこちら。
奥能登国際芸術祭2017での作品。

「うつしみ」というこの作品は、廃駅となった、のと鉄道・上戸駅の駅舎を浮かび上がらせたもの。夜になるとライトアップがされてよりその姿がはっきりと、そして幻想的に映りました。

瀬戸内国際芸術祭2019での作品。

本島に展示された「恋の道」は、曾彌好忠が平安時代に詠んだ和歌「由良のとを 渡る舟人 かぢをたえ 行方も知らぬ 恋の道かな」を元に作られたもの。素材のレンチキュラーは見る角度によって色が変わるそうで、恋の行方を知れない不安感が折り紙のような造形だったり、見方が変わったりするところに表れているような面白い作品でした。

さて、本題のヨコトリです。

メイン会場である横浜美術館に着くと、建物は工事現場で見るような幕に覆われていました。改装中ではなく、これもれっきとした作品です。イヴァナ・フランケ「予期せぬ共鳴」。

入口を入るとキラキラしたものがいっぱい吊り下げられていて思わず吸い寄せられるようにして近づいてしまいます。

ニック・ケイヴ「回転する森」。

元々は鳥除けで吊るされるもののようですが、なかには銃の形やピースマークのものもありました。銃社会への批判、またはBlack Lives Matterへの言及なのでしょうか。

そのほか気になった作品の画像を上げていきます。

ロバート・アンドリュー「つながりの啓示ーNagula」。

金氏徹平「White Discharge」「Abstract News」。

キム・ユンチョル「アルゴス」。

同じくキム・ユンチョル「クロマ」。

エヴァ・ファブレガス「からみあい」。

タウス・マハチェヴァ「目標の定量的無限性」。

不完全な体操器具が並べられた不思議な空間。音声が流れていて、その多くは誰かを叱責するもの。

佐藤雅晴「死神先生」。

KEN NAKAHASHIで拝見した佐藤さんの遺作と再会できてうれしかった。ただ、隣の映像作品の音が大きくてしんみりした気分に浸れなかったのが残念。

青野文昭「イエのおもかげ・箪笥の中の住居ー東北の浜辺で収拾したドアの再生から」。

あいちトリエンナーレ2013にも参加されていたのを覚えています。つなぎめがどうなっているのかじっくり見てみたけれど、正直よく分かりませんでした。

そのほか、画像は撮れなかったですが、ふたつの映像作品が印象に残りました。
ひとつは岩間朝子「貝塚」。セイロン(今のスリランカ)に何度か労働調査に訪れていた作家の父をめぐる物語。父はセイロンで何をしていたのか。残された写真や日記をたどってみても父親を駆り立てたものが何だったのかは謎のままで不思議な余韻を残しました。
もうひとつはパク・チャンキョン「遅れてきた菩薩」。インドの核実験(「微笑むブッダ」)や日本の原子力施設(「ふげん」や「もんじゅ」)と核に関する名称が仏教から引用されている事実を立脚点とし、仏陀の入滅の際のエピソードを基に放射能に汚染されて世界で救いを求める人々の姿を描いているように思いました。ネガポジの反転で放射能汚染をイメージさせる表現はうまいなと。
パク・チャンキョン氏の作品は「あいちトリエンナーレ2019」(「表現の不自由展」のクローズに抗議していち早く自らの展示室を閉じた作家のひとりでした)、そして台中で見た「アジア・アート・ビエンナーレ」、そして今回のヨコトリと昨年〜今年にかけて立て続けに見ることができたこともあって、更に興味を持ちました。またどこかで拝見したいと思っています。

体験するには事前予約が必要なモレシン・アラヤリの「未知を見る彼女:ヤージュージュ、マージュージュ」も予約できたので体験しました。VRインスタレーションということでしたが、操作して動くゲーム性の要素はまったくなくただ臨場感のある空間のなかでナレーションを聞くだけ、という内容で正直がっかりだったかな。

展示室から少し離れた空間では、メイク・オア・ブレイク(レベッカ・ギャロ&コニー・アンテス)「橋を気にかける」。

横浜市内に存在するというレトロな橋の形を鉄で再現して、そこに塩水を吹きかけることで徐々に錆びていくという、観客参加型の作品でした。

横浜美術館に別棟があってかつてはレストランとして使われていたことを今回はじめて知ったのですが、その空間を上手く使っていたのが、ジャン・シュウ・ジャン「魔山普陀岩」。

作品は奥の厨房にまで。今は使われていない建物の厨房って普段はあまり足を踏み入れたくない不気味さがありますが、その空気が作品の世界には上手く当てはまっているんじゃないかなと感じました。

さて、次はもうひとつの会場へ向かいます。徒歩で10分弱の距離ですが、外は日差しが強くてこの時期にはちょっと厳しい。そんなところに強い味方が登場しました。

ヨコトリ仕様の日傘です。
日傘を差すのははじめてだったのですが、日差しが遮られると確かに楽に感じられました。

ということで、プロット48に到着です。

まず現れたのは、デニス・タン「自転車ベルの件」

木に自転車のベルがくくりつけられていて、ぶら下がっている紐を引っ張るとベルが鳴ります。ベルの乾いた音が蒸し暑さのなかで心地良く響きます。

入口に向かう途中にはフェンスが。こんなところに?と思ったら、これも作品でした。
ジョイス・ホー「バランシング・アクトⅢ」。

脚がロッキングチェアのようになっていて触れるとゆらゆら揺れ動いています。頑丈なはずのフェンスとこの緩やかな動きとのギャップに途惑ってしまいました。

プロット48にも体験に予約が必要な作品があって、それが飯川雄大「デコレータークラブ 配置・調整・周遊」。飯川さんのこの体験型の作品、部屋に入ると係の方がいるのですが、この方はまったく説明することもなく。何をすればいいか、空間を探りながら考えなければなりません。後で伺ったら「ノーヒント」で教えたらダメだと言われているそうですが、得体の知れない空間に何の説明もなく入れさせられる経験ってなかなかないと思います。そんな意味で非常に楽しい作品でした(実は私は以前に尼崎のあまらぶで体験していたので「何をすればいいのか」は分かっていたのですが)。

イシャム・ベラダ「質量と殉教者」。

アモル・K・パティル「水面下への眼差し」。

ジェン・ボー「シダ性愛」。

若いアジア男性ふたりがシダとエロティックに絡み合う映像作品。一部は表現規制が入っているそうなんですが、シダ相手にそこまで過激になれるの⁉︎と驚きます。
というか、この作品、どこかで見たことがある。京都だったような気が、と思い調べてみたら京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで個展をされていた方でした。

エレナ・ノックス。

エビにまつわるインスタレーションだったのですが、個性の爆発が過ぎて自分にはついていけませんでした。笑

会場となっているプロット48は、壁紙が剥がされた跡がいたるところに残っていたりで、どこか廃墟のような雰囲気が漂っている何とも妙な建物でした。ショッピングモールの跡地かな?とその場では思っていたのですが、帰宅して調べてみたらアンパンミュージアムだった建物だそうでした。なるほど。

と、一通り展示を見たわけですが、個人的にはヨコトリはまだ終わっていません。
遡ること7月、ヨコトリがはじまった直後ぐらいのこと。名古屋芸術大学の学内展を見に行ったら田村友一郎さんに偶然お会いしました。少しお話させていただくなかで私が「ヨコトリも無事にはじなりましたねえ」と口にしたら「自分のは10月から美術館とオンラインで展開するので、今はまだないんですよ」と驚きの答えが返ってきました。
ということで、10月に入ってからもう一度ヨコトリに足を運ぶつもりでいます。今回時間の関係でパスした映像作品やパフォーマンスもあるので、次回またじっくりと拝見したいと思っています。楽しみ!!

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