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今さら脱反抗期

いい歳をして(!?)人や社会に反抗し背中を向け続けているうちにどっぷり孤独になって浸ってしまい、表向きは独立独歩を気取っているけれど内心は寂しくて耐えられない、だけど今更そんなこと恥ずかしくて言えないし、そんな心のうちを誰にも気づいてももらえなければ心配もしてもらえない、なんて人はいますか? 声に出さなくていいので、心の中で手を挙げてください(笑)。まずは自覚することがそこから脱出するための第一ステップ。

そういう人をそれでも愛せるほどの度量の人はなかなかいないのでは?と私には思えます。親なら無条件にそれでも愛してくれる親もいるでしょうが、そうでない親も現実にはたくさんいます。でも人間の親ではなくて、人間を造られた真の親である創造主の神はどんな人でも愛していてくださいます。神様は人を愛するために造られたので。だから、今、自分では誰からも愛されてないし愛する対象もいないと思っている人でも、自覚があろうとなかろうと、創造主の神には実は愛されているのです、それってすごいことですよね?!

旧約聖書にヨナという預言者が登場します。預言者とは将来に何が起こるかと適当なことを言って人心を惑わせる人騒がせな嘘つきのことではなく、聖書に出てくる預言者は文字通りに“神からの言葉を預かり民に伝える”人のことです。そうじゃない自分勝手なことを言う人は“偽預言者”と聖書に定義されています。

で、そのヨナですが、ニネベという罪深い街に行って悔い改めを促すように神様に言われます。でもヨナはそんな人たちが救くわれるのに賛成できないから行きたくなかったので、従わずに別の町行きの船に乗ってしまいます。この反抗心と行動力がすごい! だって、預言者たるもの、一般人よりもよほど神様がどういうお方なのか熟知しているのだから、行き先を違う船に乗るくらいではどうにも反抗できない、神様の目からも手からも逃れることはできないはずだとわかっていながら、それでもやっちゃうところが、なんとういか、ある意味、筋金入りの反抗者。でも、そんな反抗がうまくいくはずもなく、途中の面白いところは省略しますから楽しみはご自身でご確認いただくとして、結局、ヨナはニネベにやってきます。

そして、ヨナは嫌々ながらも神様に指示されたとおりに、ニネベの街で悔い改めを説いてまわります。ところが、ヨナの期待に反して、なんとニネベの王が率先してその民を促し皆で神様の前で自分たちの罪を悔い改めてしまいました。その姿を見た神様は不憫に思ってニネベの街を救うことにされました(そのまま悔い改めないとソドムとゴモラのように天から火を降らせて焼き尽くされた例もあるのですが)。ヨナは面白くないのです。だって、こんな罪深い奴らをなんで赦すんですか?! ヨナは、主が哀れみ深くて慈悲深くて寛大だから、もし奴らが悔い改めたら赦してくださることもここに来る前から最初からわかっていたから、だからここに来て語るのが嫌だったんです!とほとんど癇癪を起します(と私には思えます、この箇所を読むと)。でも、それに対する神様の答えがこれです:

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。
ヨナ書4章11節

右も左もわきまえないとは、何が正しいか正しくないかわからなくて罪を犯す、ということだと思います。わからないで、知らないうちに罪を犯してきた。みんなやっているから、昔からそうだからいいだろうという“右へなれい!”的な思いもあったかもしれません。そして、ヨナの言葉によってそれに気づかされた時に、もしかしたらここで悔い改めたなら最後の一筋の望みで主が救ってくださるかもしれない、と王様以下、十二万の民が揃って心を改めた。知らないという愚かさゆえの罪を憐れんで可哀そうに思ってくださる神様のお優しい一面がよくわかる箇所で、聖書の中でも大好きな箇所のひとつです。

この短いヨナ書(日本語聖書で3頁半)にはふたつの反抗が描かれています。ひとつはニネベの街全体の12万の人々による神への反抗。そしてそれを悔い改めに促すために神様から召され派遣されたヨナの、そんな仕事はしたくないという神様への反抗です。神様は、そんな反抗的なヨナのこともたいへん寛大に優しく扱ってくださいました。

私はクリスチャンになる前の人生が、聖書に書かれていること、つまり神様がこう生きなさいと言われていることにコトゴトク反していました、それを聖書を読んで知りました。つまり、それまでは自分のしていることがどれほど罪深いかの自覚はあまりなかったのです、無知ゆえの愚かさでした。世的に普通、みんなやっている、あるいは単に自分の好きに生きるのが良い、と軽く思っていました。人生を真剣に受け止めていなかったとも言えます。

だから、ニネベを救われた主の愛が、自分のことのように思えます、実際、自分のことですが。

また、神様にこっちに行けと言われてあっちに行ってしまうヨナの気持ちもよくわかります。そんなことはしたくないから願わくばこれは神様の御心ではないように!と思うことがあります。

それでも、クリスチャンとなった私の人生のポリシーとして、それまでの人生と真逆に神様に従う人生を歩んでみて違いを知る、ということがあるので、嫌な気持ちを押さえつけて従ってきたこともあります。これが、心から従えたならどんなに祝福されるかと思いますが、心がついていってなくても行動が従っているだけでも祝福はされています。 

知らないで罪を犯していたことも、また知った後でもそんな御心には従いたくないって思っちゃう反抗も、それでも赦しくださる神様の深い愛に触れる時、心からの反省、悔い改めに導かれます…。

ちなみに、悔い改めるとは、単に心で「ごめんなさい」と反省してみてあとは元通りではなく、言動を実際に改めることを言います。一回悔い改めてそれで一気に行動が変わるわけではありませんが、その繰り返しで修正されて人格が成熟していく、と信じています。

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