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【#もう眠感想】安心して生きて死ぬためのカギは、対話と観察の中にある。

死を身近に感じたのは、小児がん患者の死がきっかけだった。

ディズニープリンセスになりきって、歌を歌っていた4歳の女の子。
当時1年目看護師だった私は、自分のことで手一杯だった。そんな私の心を見抜き、その子は「一緒にお風呂に行くの嫌だ。」「お薬飲まない。」と、なかなか手を焼かせた。

ある日、その子が白血病の再発で、再入院してきた。
あんなに元気だったのに、しゅん…としていて、体が一回りくらい小さくなったように感じた。顔色が悪い。皮膚が黒い。おそらく抗がん剤の影響だろう。

ある夜勤の巡回で様子を見に行ったとき、力のない目と、目があった。なにを訴える訳でもなく、じぃっとこちらを見ている。

酸素投与時の加湿のためのお水が、ぷくぷくと音を立てていた。静かな病室にその音が響く。今でもその情景を思い出すと、その時の「ぷくぷく」という音が蘇ってくる。それから数か月以内に、その女の子は自宅で亡くなった。


その後も、病棟に勤務している間に、何人かの小児がん患者が亡くなった。涙が止まらなかったときもあったし、「がんばって生きたね」と、ねぎらいの言葉をかけるときもあった。治療でボロボロになった姿を、見てられないときもあった。

ひとつ、子ども達の最期に関わっていく中で、違和感があった。当事者が置き去りにされているように感じることだ。最期をどう過ごすか決めていたのは、家族と私も含めた医療者である大人たち。

「この子はどう過ごしたいんだろうね?」と医療チーム内で話合いながらも、”大人の都合”は、どうしても働いていたとおもう。

言葉でうまく気持ちを伝えられない子がほとんどという中で、子ども達が安心して死ぬために、何をしてあげられたのだろう。


死とはなんだ

先日、「だから、もう眠らせてほしい」という本を読んだ。安楽死と緩和ケアを巡る、命の物語。その著者である西先生が、本編の冒頭でこう語っている。西先生が学生の頃の話。

年老いた男性が、看護師に胸を押されてがくんがくんとベッドの上で波打つ姿。口には管が入り、虚ろな目がこちらを見ている。
「これが死、か」       

「だから、もう眠らせてほしい」 本文より


そもそも、死ぬってなに?

私は以前、「心臓の死 = 死」だと思っていた。たくさんの管が繋がり、薬で体をコントロールしている状態を想像する。だんだんその体の機能が弱ってきて、死を目前にすると「プチッ」と、何かが終わりを迎え、命が終わる。そんなイメージだった。


だから、「人生会議(ACP)※」の話になると、「死ぬ直前は人工呼吸器は付けたくない」とか「胃ろうを作らない」とか、線ではなくて点の話になりがちだったのだと、自分自身を振り返る。

医学生の西先生が、一場面だけを見て「これが死、か」と呟いたときと同じ気持ちだったと思う。

※ ACP(Advance Care Planning)とは、将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、 本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援する取り組みのことです。

日本医師会HPより引用


本を読み進めていくに伴って、私が今まで関わった何人かの死を振り返った。そこで、ふと思い付いた。私が思っていた死は、一連のプロセスの通過点でしかなかったのかもしれない、と。

命には、生まれて死ぬという区切りがある。でも、私が世に生まれてくる前には、親目線での私が生まれる前の物語があり、死んだあとはパートナーや子供、大切な友人が紡ぐ物語があるのだ。

だから死は、大きな時の流れのなかにあるもの。点ではなく線の話なのだ。そう思えたからこそ、失った悲しみに意味付けをして光に変えていくケア、つまり「グリーフケア」の大切さを強く感じた。及川さんが、Y君の奥さんに声をかけたように。


また死について、本の中でこのような話があった。

僕はよく「死には三種類の死がある」という話をする。それは、肉体的な死、精神的な死、社会的な死、である。
これまで当たり前に過ごしてきた社会に、徐々に参加できなくなり役割を喪失することでの社会的な死。役割を喪うことや病気の進行で心が弱くなり、自分の存在価値を見失っていく精神的な死。そしてその先にある肉体的な死。

僕たちは安楽死についての是非を考える前に、まずこの三種類の死をしるべきだ。         

「だから、もう眠らせてほしい」本文より


死は心臓死だけではない。社会的な死や精神的な死は、どちらの死も、人の営みの中にいるからこそ生まれるもの。肉体的な死が近づいているなら、そのまま安らかな時間を過ごしてほしいと思う。けれどその他はまだ関わり次第で助けられる。まだ”蘇れる死”だから、もう「一度生きたい」と思えるような、人と人との繋がりが、命をつなぎとめるのだろう。

死は思ったよりも複雑で、だからこそ、答えのない問が続く。


終末期の子どもの「生きたい」気持ち


今まで関わってきた子ども達のことを思い出す。

こどもの場合は年齢的に気持ちを言語化することが難しい。そのため親の思考、生き方が治療内容に反映される傾向にある。とは言え、生死に関わる決定は家族がせざる負えないのが現状であるため、家族にとって苦しいものであることが多い。気持ちを言語化できない人たちの意思を、どうやって余生の過ごし方に反映させていくのかは、頭を悩ませるところだ。


さらに本書を読み進めていく。
Y君の最期を読んだとき、「子どもたちの生き方に似ている。」と思った。ここにあったのだ。「子どもたちが安心して死ぬためにできること」のヒントが。


子ども達はどちらかと言うと、Y君のように「周囲に全てを委ね、家族の繋がりの中で亡くなる」パターンが多い。毎日の生活の中に子どもたちが求めるのは「楽しさ」だ。生きることが楽しい。家族や親しい人の中で過ごすことが楽しい。それが自然と「生きたい」に繋がる。

明確な根拠があるわけでなく、私の感覚でしかないけれど、白血病で亡くなったあの子も、脳腫瘍で亡くなったあの子も、亡くなるタイミングは自分で決めていた気がする。

生きていてほしいと願う家族のために、一緒にいたいがために、長く生きようとした子は少なくない。「一緒にいたい。」という本能的な意志は、はっきりしていると感じる。少なくとも私は、力のない小さな体から、メッセージを感じていた。


これは終末期の子どもに関わらず、生まれたときから病気や障害があったり、そのために人工呼吸器などの医療的ケアが必要な子も同じだろう。私は現在、医療的ケア児の在宅看護をしている。彼らにとっては病気や障害がある状態が当たり前で、その状態で生きていくことしか知らない。世の中的にはマイノリティなのだけれど、それが彼らの当たり前。

周りは「可哀想」だと思うかもしれないけれど、笑顔はキラキラ!ハンディさえもうまくカバーして、走り回ったり飛び跳ねたり、公園でも自由に遊んでいたりする。言葉をしゃべれず自由に動けない子は、一生懸命小さなサインを送ってくれていて、私たちと一生懸命話そうとしてくれる。

そんな様子を見ていると、生かされているように見えた命は、「大好きな家族と生きたい」「楽しいことをしたい」という自分の意志で生きている命だと思わずにはいられない。本人に聞いたことはないけれど、キラキラした笑顔がそう語っているように思う。


病気や障害がある子、終末期の子の「よりよい生」のためには、その気持ちを理解するための対話と観察が必要だ。気持ちに寄り添い、小さなサインを見逃さないこと。自分の体で何が起こっているのか、わかりやすく説明すること。

「嫌だ」などの意思が伝えられる段階なら、きちんとこどもの話を聞く。話し合う。

子どもたちも、気持ちを理解してくれる人がいて、家族と過ごすことができたら、安心して生きることができ、安心して死ぬことができるだろう。


誰のための医療か


誰のための医療なのか。
いつも心の隅に、置いておきたい言葉。

よりよく生きるために、医療がある。
よりよく死ぬために、医療があるのだ。

誰かが得したり損したりするためにあるのではない。


私は、対話と観察の中に、安心して生きて死ねるカギがあると思う。それは、私がそうして欲しいから、そう思うのだ。安楽死したいとか、鎮静かけてほしいとか、私の中にその要望はまだ生まれていない。けれど一つはっきりしたのは、私がもし死を迎えることになったら、それを支えてくれる人たちと、同じ目線でとことん話したい。話し合える人に看護してほしい。理解し合えるから安心して死ねるようになると思うからだ。安心できるから楽しい気持ちが生まれ、死を目前にしていても生きることが楽しめると思う。

私がやってほしいことを、今関わっている人に対して実践したい。今回「だから、もう眠らせてほしい」を読んだことをきっかけに、改めて私の看護を振り替えることになった。

身体的な痛みだけでなく、精神的な痛みでも、子どもたちは「痛い」と表現する。悲しくて、涙がでるときにも、子どもたちは「痛い」と言う。

そんな痛みは感じなくていいように

痛みを共有できるように


日々の実践で、安心を提供したい。
それが私の役割だ。


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