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大人もつらい

 僕は基本的に「大人ダセえ」と思いながら学生時代を過ごしてきた人間だ。

 いまでも考え事は「僕 vs 大人」の構図で始めてしまう。

 だけど、もう僕は学生ではない。社会に出て僕も学生から“ダサい大人”としてくくられる側になった。

 そこで、“ダサい大人”として生きている今、大人を「ダセえ」と笑ってきた学生時代の自分とどう向き合えばいいのか? ということを考える必要が出てきたと思うのだ。「いや〜だってさあ、仕方ないじゃん」みたいな一言で、それこそ“ダサい大人”を象徴する追従笑いを浮かべて言い訳するのではなく、あの頃の自分を納得させるための言葉を探す必要がある。

***

 僕は職場で事務さんの隣に座っている。

 事務さんは明るいおしゃべりな人で、忙しいときは相槌を打つくらいしかできないけど、僕も余裕があるときは自ら話しかけたりしてふたりで笑っている。

 最近、その事務さんがめずらしく暗い表情で、「悲しいことが起こったときにどうやって乗り越えてる?」と聞いてきた。

 具体的に話を聞こうとしても「もはや悲しいかどうかも分からなくなってきたよ」というようなことを言うばかりで悲しさの内容まで教えてくれない。なので質問に答えるのが難しかった。

 情報が限られているなかで答えのひとつとしてまず言えるのは「楽しいことをして悲しさをごまかす」。でも僕はこの方法で悲しみを乗り越えたことが一回もない。カラオケで歌ったり酒を飲んだりして晴れる悲しみとはなんなのか、自分の抱えている悲しみはその程度のものなのか、「これをこうすれば自分は悲しくなくなる」なんてあまりにも機械的じゃないか、そういうことを考えてしまうから。それに、この方法は悲しさを「ごまかしている」だけで「乗り越えて」はいない。

 答えとしてもうひとつ言えるのは「時間がいつか解決してくれる」。でもこれは悩んでいる相手を突き放すような答えだし、そもそも事務さんだって僕に言われなくても知っているはずのことだ。

 どちらを答えても事務さんにとって耳新しい返事にならないのは分かっていた。人が質問をするのは、自分の持っている材料ではどうにも解決できないから他人の見地に頼りたい、ということだろう。別角度の切り口を求めているその人にありきたりの一般論で回答するのは違う、というか質問された意味がない気がする。だから僕は質問されたときはなるべく自分の回答が一般論に陥らないように心がけていて、それで「悲しいことが起こったときにどうやって乗り越えてる?」と聞かれたときにパッと思い浮かんだのは下記の戸田真琴の言葉だった。

あなたの心が哀しみに暮れているという理由ではぜんぜん休ませてくれない仕事を、毎日こなしているうちに、時間は自動で進んでいきますが、そのベルトコンベヤーに乗っていない場所にあなたの哀しみはあるのです。

哀しみは自動で消えていったりはせず、あなたの足がみずから歩む歩幅にだけ合わせて、あなたの身体に溶けて染み込んでゆきます。

時間が解決してくれるさ、という無責任な言葉で決して傷が癒えないのは、それが、時間が運んでくる様々な人生のタスクがあなたの目を逸らしてくれるというだけの表面的な解決法だからに他なりません。

哀しみや別れを笑い飛ばす明るい歌や大袈裟なハッピーエンドの物語で現実を遠ざけても、あなたの、あなただけの哀しみはいつもぴくりとも動かずあなたを見ています。目を逸らしたあなたに忘れられていくのを、生傷のまま見ています。
(引用元:https://kai-you.net/article/44478)

 この考え方がまず浮かび、回答としてもよさそうだった。でも自分の言葉に変換したらうまく伝えられそうになかったので、おおざっぱに「僕はその悲しみを背負って生きていきます」とおちゃらけた調子で言うと、事務さんは笑った。

 実際、僕は悲しいことが壁として目の前に立ちふさがったとき、それを乗り越えるというよりかは壁に沿って歩くようにして生きてきた。こういう悲しい出来事が自分の人生に起きてしまったんだから仕方ない、やっていくしかない、というように。

 だいたいよく言われる「悲しみを乗り越える」というフレーズ。これの具体的なイメージがわかない。なにをもって「乗り越えた」とするのか。乗り越えた人のなかに、その件に関する悲しみはもうないのか。

「たとえばカラオケで歌ったり酒を飲んだりしても、悲しみは乗り越えられなくないですか? これまでの悲しかったことや苦しかったことを、僕は乗り越えられたことなんか一度もないですよ。乗り越えられずに、腹の中に、解決できない一点として、こう、石みたいにぐっと固まって残っている感じです」

 返事を考えるうちに間があくのを恐れてとりあえず笑いに逃げる形で答えただけだったが、次第に自分のなかで考えがまとまってきたので言葉を付け足すと、事務さんは「たしかに」とそのあと考え込むような表情だった。もちろん事務さんが求めていた回答はもっと別のものだったことは分かっている。

 で、僕にとっていま仕方なく受け入れている悲しみ、そして解決できない一点として固まりつつある悲しみとは、この働いている日々なのだ。“ダサい大人”として働く毎日が悲しい。このさき生きていていいことなんかひとつも起こらないのに、嫌なことは無限に降りかかってくるこの日々が悲しい。

 でも学生時代の僕が「ダサい」と断定してきた “大人”とは、実際に自分の体験を通して構築したイメージではなく、漫画やドラマなどから植え付けられたものに近い。欅坂46の「サイレントマジョリティー」に描かれているような歯車として生きるつまらない大人像。その像と、身近な大人である親や教師の嫌な部分を見比べて「ああ、やっぱり大人って」と何回もの確認作業で“ダサい大人”に対する反感はだんだんにできあがっていたように思う(親に対しては良くも悪くも別の感情があって、“ダサい”とは思わないけど)。

 社会人として様々な年代の大人と本格的に関わるようになって、僕はそんな学生時代とは違う視点で“大人”をとらえることができるようになった。その視点をもって言えるのは、みんな好きでこんなことをやっているんじゃない、学生の頃には想像もつかない苦しくてつらい思いを大人はたくさん味わっている、それなのにそのうえ「ダサい」なんて言ってやるなよ、ということだ。

 もちろん、学生時代より今のほうがつらいとは言わない。どっちがつらいとか比較できるものではなく、それぞれのつらさがある。学生生活と社会生活で受けるのは別種の苦しみだ。

 学生時代には自己存在に関わる苦しみがあった。友だちができない。好きな女の子とうまくしゃべれない。勉強してもテストでいい点数がとれない。練習に打ち込んでもスタメンになれない。勝負しようにもそのためのカードが手持ちにない感覚。

 いまは生活の苦しみがある。仕事量が倍になっても少しも変わらない給料。ただ空腹をまぎらすためだけにコンビニ飯を食って、泥のように眠る日々。毎日これが続くという思い。けして自分は豊かになれないという予感。つらいけど働かないと生きていけないという、諦めがすぐさま死に直結する可能性。いますぐ仕事を放り投げたいけど、今この場でやるのは自分しかいないのだからやるしかない、みたいな感覚。

 先に書いた通り比較できるものではないのだけど、しいて言うならば、僕としては学生時代のほうが正直つらかった。「お前は周囲と比べてなにもできないダメなやつだ」と人としての根本を否定される過程でしかなかったから。だけど、大人もつらい。有無を言わせぬ力が働いているから。「やるしかない状況に追い込んだらこいつも頑張るだろ(笑)」みたいなそういう力。誰からのとかじゃない。拳を振り上げる気も起こらないほど大きななにかからの。周りを見て、みんなこんな思いをして歳を重ねてきたのだと思うと時々泣ける。

 不思議なのは、労働が強いるつらい状況を嫌だと感じてみんな働いてきたはずなのに、自分よりも若い人間が「つらい」とこぼすと、「おれもつらい」「みんなもつらいんだよ」「昔のほうがつらかった」みたいな論理でねじ伏せてくる人がいることだ。

 僕としてはなぜ大人が“つらさ”で肩を組もうとしてくるのかが分からない。あるいは、なぜ大人が“つらさ”でマウントをとってくるのかが分からない。つらいことがベースにあるのはおかしいことではないのか? みんなつらいのなら、そこに沈み込むのではなく抜け出そうとするのが人として正しい姿勢なんじゃないのか?

 大人に批判されるべき“ダサさ”があるなら、それは、人の苦しみを苦しみと思わないところだろう。自分が味わったつらさを他人にも味わわせるために足を引っ張ろうとする態度だろう。

***

 話が飛ぶようだけど、M-1三回戦のシンクロニシティのネタにいいセリフがあった。

 期間限定公開でやがて消える動画なので書き抜いておく。

「表情が暗い」とよく言われる。そこで変な顔に整形したら鏡を見たときに自分で笑えるはず。だから整形したい、というネタ。

「さっき待合室に面白いパーツが顔についてる人たくさんいたんで、連れてきてもいいですか?」
「やめてください。みんなで幸せになりたいんで」
「宗教ですか?」
「宗教ではないです。ただみんなで幸せになりたいってだけなんで」

「ただみんなで幸せになりたいってだけなんで」

 いつからかそういうふうに考えるようになった。本当に。


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