劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel]はどうして今なのか。古参オタクに聖杯の救いはあるのか
Fateは膨大なテキスト量のゲームだ。とてもアニメや映画に収まるものではなかった。実際、以前に凛ルートの映画、『UBW』を見た時は、かなり駆け足な展開だと思った。テキストで読めば20時間ほどかかるものを2時間の映画にしたら、それはそうなる。
では、どうして作品でも屈指のテキストボリュームを誇る『Heaven's Feel』を映画に出来たのか。
それは、受け手のFateリテラシーが高まっているから。
PCゲーム『Fate/stay night』が発売されたのは2004年。そこからアニメになったり、家庭用に移植されたり、格ゲーになったり、映画になったり、雑誌になったり、スピンオフが作られたり、ソシャゲになったり、15年以上も続いている化け物だ。
もう、Fateはコンテンツの枠を超えた。
もはや、Fateは世界である。
世界とはどういうことか。
そこにシステムがあり、その情報が共有されているということ。常識があるということ。
Fateのシステムもキャラクターも、みんな知っている。
聖杯戦争ってなに? みんな知ってる。 衛宮士郎って? みんな知ってる。セイバーが召喚されることも、どんな英霊がどんな宝具を使うのかも、みんな知ってる。
それには今まで積み重ねられたアニメや映画がオタクの教養として受け入れられているはもちろん、FGOの存在が大きい気がする。アプリで誰でも手軽にFateの世界を知ることが出来るから。
だから、 『Heaven's Feel』はセイバーの召喚シーンとか、キャラクターの説明とか無い。当たり前のように登場して、戦って、死んでいく。みんな知ってるから、省略しても問題ない。むしろ肝心な、桜の内面やオルタの戦いのシーンに時間を割くことが出来る。それはFateというコンテンツでしか出来ないんじゃないかと思う。
『Heaven's Feel』の映画化は古参のファンにとっては夢の実現で、コンテンツとして一つのゴールだ。だって、これはトゥルーエンドの映像化だから。推理物で言えば解決編だ。でも、諦めてた人も多いと思う。当時からしたら、『[Heaven's Feel』の映画化はそれこそ聖杯にお願いするレベルの難易度だって言われてた。
FGO以前のオタクにとって、『[Heaven's Feel』の映画化はFateというコンテンツの一つの終着駅だ。
10数年前に、Fateは文学とか、セイバーたん萌えとか言ってたオタクはどこに行ったのか。型月厨と呼ばれた彼らが、オタクという名のサーヴァントだとするならば、彼らはもう聖杯に還ったのだろうか。
初期から今まで生きているギルガメッシュみたいなオタクはどれくらいいるんだろうか。
『Heaven's Feel』の聖杯に、救いはあるのだろうか。
追うことに疲れてきたオタクにとって、『Heaven's Feel』は切腹の時の介錯みたいな、あるいは死に場所が用意されたような、そんなエンドコンテンツだと思う。古参にとってのアヴァロンである。そういう意味では『Heaven's Feel』で救われるオタクは、けっこういるんじゃないだろうか。きっと私も、その一人だ。超絶作画のセイバーオルタや桜を見て、思い残すことは多分、無くなるんじゃないかな。
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