図書館ー2

キング中毒者の告白(その2)


◇『アンダー・ザ・ドーム』:外界から隔絶された社会では悪がはびこる
 『アンダー・ザ・ドーム』は、アメリカ、メイン州の小さな田舎町が、ある日突然、透明なドームですっぽり覆われてしまうという話。
 キングがこれを書いたのはいうまでもなく東日本大震災前のことですが、救いようのない閉塞感と息苦しさで、大震災後の日本のことを読んでいるような気がしてしまいます。
 『アンダー・ザ・ドーム』の町では、停電に備えて、どこの家にも自家発電機があります。私は、東日本大震災の直後、日本もこんな状態になるのだろうかと、恐ろしく感じました。
 それから後も、私の頭の中では、この町と日本の姿が、どうしても重なってしまいます。この奇想天外な物語から、「孤立した経済はありえない。外界から断絶された社会には悪がはびこる」ということが、ひしひしと伝わってくるからです。

 キングの作品は「ホラー小説」と呼ばれます。一般に、「ホラー」を引き起こす源泉は2つあります。

 第1は、超自然的現象(つまり、「お化け」)。第2は、人間の心に潜んでいる邪悪な想念(憎悪、怨念、妬み、復讐心、病的加害癖等々)です。
 お化けを信じない人も、邪悪な人間がいることは認めざるをえません。それらは、潜在的な脅威として、つねにわれわれの周りを漂っているわけです。何らかの原因でそれらが解放された時、恐怖が現実化します。
 邪悪が我々を襲う第1のケースは、「お化け」として現われる場合です(これが、「怪談」です)。
 第2のケースは、邪悪の発現を抑制していた社会的制度が、何らかの理由で機能しなくなる場合です。『ドーム』では、ドームによって外界との関係が断たれてしまうために、悪者たちがのさばってしまいます。
 この設定は、『ザ・スタンド』に似ています。

 ところで、キングの作品はどれも、極めて多数の人物が登場し、英雄も悪人も、大人も子供も、一人ひとりが個性豊かに描かれています。
 『ドーム』の読者は誰も、アリス・アップルトンという小さな女の子がこの災害から救い出されることを、心の底から願うに違いありません(キングは、子どもたちを生き生きと描くのがとてもうまい)。
 『ザ・スタンド』を読んだ人は、主人公の一人であるナディーン・クロスの目に魅惑され、それから逃れられなくなるでしょう。
 そして、一見些細な細事(外界の事物だけでなく、人間心理の微妙な動き)のですが、実に注意深く描かれています。ホラーが現実性を持つには、この類の細部が必要不可欠です。キングの小説が迫真性ある恐怖感を呼び起こすのは、そのためです。

◇「トミーノッカーズ」
 「トミーノッカーズ」とは宇宙から来た正体不明の化け物。彼らの宇宙船が発する放射線のために、町中の人が同類にされてしまいます。
 キングは、前書きで「これは架空の物語だが、トミーノッカーズは実在している。これを冗談と思う人はニュースを聞いていないのだ」とわざわざ断っています。

 『トミーノッカーズ』を読んでいると、「これは、ここ数年の日本経済の予言ではないか!」という奇怪な想念を追い払えなくなります。「起こりえないことが現実に起きている」という恐怖感です。

 いま日本では、金融緩和のおかげで、何となく経済がよくなったと考えられています。しかし、何かショックが起きれば、日本はある日突然、世界から切り離され、ドームに閉じ込められた町と同じになってしまいます。
 日本人は、いつの間にか、ドームに閉じ込められてトミーノッカーズになったのでしょうか?

◇『悪霊の島』
 キングの小説の魅力は、『自分がその場にいるような臨場感を味わえること。キングが作ってくれた非現実の世界にどっぷりと浸かれば、極上の快感を味わうことができます。
 キングの小説を読む楽しみは、ホラーストーリーの展開を追うことではなく、細部の雰囲気にひたり、目を閉じて情景を想像することです。
例えば、『悪霊の島』で「わたし」が主人公の老女と最初に会話を交わす場面。

「本のない人生は飲み水のない人生のようなもの、そして詩のない人生は・・・」と言って絶句してしまうシーンを読むと、フロリダのさわやかな空気が感じられるような気がします。イメージを壊されたくないので、この作品が映画化されないことを、願ってやみません。
映画化して欲しくない作品は、『IT』だけではないのです。

◇『ランゴリアーズ』と70年代
 『ランゴリアーズ』の「序にかえて」で、スティーブン・キングはつぎのように書いています。

 1974年はジェラルド・フォードが大統領、シャーはまだイランで権勢をふるっていた。ジョン・レノンは生きていたし、エルヴィス・プレスリーもまた然り。(中略)消息通は、カセットレコーダーが普及するようになれば、ソニーのベータ方式の機械は、VHSというライバル方式を蹂躙するだろうと予言した。(中略)評判の映画をレンタルビデオで借り出して観るなんていう考えは、まだ実現にはほど遠く思えた時代だった。ガソリンの価格は考えられないほど高騰した。レギュラーガソリンが1ガロン48セント、無鉛ガソリンは55セントだった。

 ところで、キングは、74年を「たった昨日のこと」と言っているのでしょうか?、それとも「大昔のこと」と言っているのでしょうか?
 彼は、混乱しているように見えます。実際、この箇所の書き出しでは、「1974年の春は、私にとってはさほど遠い昔のこととは思えない―実際、肩越しにふりかえればちらりと見えるぐらいのものだ」としています。つまり、「74年はオンリー・イエスタデイ」だと言っているのです。
それは、彼が作家デビューしたのがこの頃で、それ以来ずっと同じことをやっているからです。
 それにもかかわらず、テレビで野球の試合を見ていたら、バッターボックスに立ったロビン・ヨーントについて、解説者が「1974年からプレーしてるんだからねえ」と、74年を大昔のように言ったのでびっくりしたというわけです。「ちょいと待った!ちょっくら待っておくんさいよ!おれは1974年に処女作を刊行したんだぜ!そりゃあそう昔とは言えないだろうが!」

 ところが、彼があげている例は、ことごとく、シャー(と言っても、多くの読者は誰のことなのか、ご存じないでしょう)も、レノンもプレスリーも、そしてソニーのベータもガソリンの価格も、「いまとはまったく違う大昔」ということの例証なのです。

 「昨日のようにも思えるし、大昔のようにも思える」キングが言っているのは、そうしたことです。実際、彼は、「時間の経過の感じ方は、(中略)まったく人それぞれなのだ」とか、「時間というものはかくごとくおかしな、思い思いに形を変える性質がある」などと述べています。彼の結論は、「時間の本質はきわめて神秘的で不可解」ということなのです。
 キングがこれを書いたのは1989年ですが、同じ感覚をいまの私も持っています(私に限らず、多くの人が同じような感覚を持っているでしょう)。
 私にとっても、1974年は「振り返れば、ちらりと見える」年のようにも思われるし、また、途方もなく大昔のことにも思われるのです。
 なぜこうした感覚になるのでしょうか?キングはその理由を「時間の神秘的な本質」に求めたのですが、私の考えは違います。私が思うには、そうなる理由は、70年代以降、世界がある面では大きく変わり、ある面で変わらなかったからです(もちろん、「時間が神秘的だ」というのは、私もそのとおりだと思っています。実際、そのことをテーマに1冊の本を書いたことがあるくらいです)。
 時間が連続しているとキングが感じる理由は、74年以来同じ仕事をしていることです。私も、多少時点がずれるとはいえ、この頃以来同じ仕事をしています。ただ、連続感を持つのは、そうした個人的事情だけによるのではありません。
 大きな理由は、70年代の初めの世界で大きな変化が生じ、そのとき作られた秩序や制度のですが、現在まで続いていることです。国際経済の面では、ことにそうです。世界経済の基本的な骨組みは、この時代に大きく変動し、新しい仕組みが築かれた。それのですが、基本的には現在まで続いています。
 その半面で、70年代より後の時点において、別の面で大きな変化が生じた。とくに、90年代において生じた変化は、本質的なものでした。70年代の変化が通貨や貨幣に関するものであったのに対して、このときの変化は実体経済にかかわるものでした。これによって、生産に関する世界経済の構造が大転換したのです。日本の国際的な地位も、これによって大きく変わった。これのですが、74年を「大昔」に感じさせる理由です。

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目次(その1)総論、歴史読み物

目次(その2)小説・随筆・詩集

目次(その3)SF・ミステリー、科学読み物、画集

メタ・ナビゲーション(総目次)


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