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第8章の6:第一次大戦とドイツのインフレ(その3)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

レンテンマルクの奇跡――インフレ鎮静化
 1923年のドイツで、各党の広い支持を得たグスタフ・シュトレーゼマンが8月に首相となり、ルール地方占領への抵抗を中止し、生産を開始した。
 そして、インフレ終息をめざす。銀行家ヒャルマル・シャハトが呼び寄せられ、その役目を負った。ハーフェンシュタインがライヒスバンク総裁辞任を拒否していたので、シャハトはライヒ通貨委員に任命された。この2人は近くのオフィスで仕事をしたが、口をきくことはなかった。
 新しい発券銀行として「ドイツ・レンテンバンク」(Deutsche Rentenbank)が設けられた。レンテンとは、地代、利子の意味である。
 レンテンバンクは、ドイツ国内の土地を担保として「レンテンマルク」を発行する。レンテンマルク1に対してパピエルマルク1兆の比率で交換することとされた。
 11月15日から交換が始まった。レンテンバンクが発行できる通貨量は32億レンテンマルクに制限され、国債引受高も12億レンテンマルクに制限された。
 11月20日の夜、まったく偶然に、ハーフェンシュタインが会議中に心臓発作で急死。シャハトがライヒスバンク総裁を継いだ。
 レンテンマルクは法定通貨ではなく不換紙幣であり、金との交換はできなかった。しかし、レンテンマルクは国民に受け入れられ、インフレは沈静化した。これは、「レンテンマルクの奇跡」(Wunder der Rentenmark)と呼ばれる。
 政府は、レンテンバンクから借り入れを行ない、ライヒスバンクが所有していた国債の償還を行なった。190、000、000兆マルクの国債は、1カ月後には完全になくなった。税収は12月から急速に改善し、1924年1月から財政収支が黒字化した。
 貨幣価値が安定したため、現金への需要が回復し、インフレーション期に退蔵されていた物資が急速に出回り、物価は一気に鎮静した。資産への投機は収まり、ドイツ経済は復興への道を歩み始めた。

 なぜこのようにインフレが急速に終息したのか? これも不思議なことだ。
「貨幣供給量が増えたからインフレになった。だから、インフレを克服するためには貨幣量を減らせばよい。レンテンマルクの発行は、一種のデノミネーション、つまり通貨の単位変更にすぎないのだが、それだけでよかったのだ」という解説が多い。確かに、通貨量を減らしたのでインフレが終息したのだが、「なぜ減らせたのか?」が重要だ。
「土地を担保にすると宣言したために、信用を獲得した」という説明もある。しかし、この担保は簡単には実行はできまい。これは多分に名目上のものだ。
 富田は『国債の歴史』で、財政支出を削減したこと(とくに、ルールの労働者への補助金支払いを停止したこと)が重要だと言う。そのとおりだ。このような措置が取られなければ、通貨量を減らすことはできない。
 また、新規融資が禁止され、投機的行為が禁止されたことの影響もあるだろう。それまでは、外貨を借りて、ドイツ国内の不動産や商品を買い叩き、高く売って儲ける悪徳商法が横行していた。そうしたインフレ加速要因がなくなったのだ。
 なお、富田は、新通貨の名称も重要だと言う。当初、ライ麦手形と交換可能とする「ライ麦マルク」も検討されていたが、この名称では信用されなかっただろう。レンテンバンクとは、農奴解放の際に農民が抱えた負債をファイナンスした銀行で、その公債は、19世紀において最も信用度の高い公債だったのである。
 1924年8月の貨幣法によって、新法定通貨である「ライヒスマルク」が発行された。これによって、レンテンマルクを回収する。レンテンマルクとライヒスマルクの交換比率は、1:1とされた。
 当初の予定では、レンテンマルクは1934年までにすべてライヒスマルクに置き換えられることとなっていたが、実際には、その後もレンテンマルク紙幣が発行され、1948年まで通用した。
 1924年からは、とくにアメリカから巨額の資本がドイツに流入し、ドイツの景気が回復して、ヴァイマール共和国の黄金時代と言われる5年間が始まった。
 ところで、シャハトは、無能な共和国政府に失望し、1930年3月にライヒスバンク総裁を辞任する。
 その後、ナチスに接近した。1931年、ナチス政権の可能性が高まったとき、アメリカのあるジャーナリストが、「ナチス政権でもドイツ経済を統治することができるか」とシャハトに質問した。
 彼は答えた。
ナチスに統治はできない。私がナチスを使って統治する
 ナチス政権下の1933年に、シャハトは再びライヒスバンク総裁に就任。1934年には経済相を兼任した。
 しかし、1937年に経済相を解任され、1939年にはライヒスバンク総裁も解任される。そして1944年、ヒトラー暗殺未遂事件に連座して逮捕され、強制収容所に送られた(連合軍により救出される)。
 さらに、戦後は戦犯としてニュルンベルク裁判にかけられた。被告人のうち、彼だけが英語で証言した。開廷前に行なわれた知能検査によると、シャハトの知能指数は143で、全被告人中で最も高かった。
 戦争で私腹を肥やしたという非難に対して、「私がヒトラーからもらったのは絵画1枚だけだが、偽物と見破り突き返した」と述べた。判決で無罪とされた。
 1970年に93歳で没。まさに波瀾万丈の人生だった。

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