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第8章の2:戦費調達に苦しんだ明治政府(その2)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

日露戦争の戦費調達に高橋是清が奔走
 日露戦争は、1904(明治37)年2月8日に開戦し、1905(明治38)年9月5日に終わった。この戦費は、どのくらいだったか?
 アジア歴史資料センターの『日露戦争史』によると、約20億円。1905年度の日本の政府歳入が約4億円だったので、その5年分だ。
 資料によって数字には若干の差がある。富田『国債の歴史』によれば、戦費は17・2億円で、1903年度税収の11・7倍だ。
 いずれにしても、当時の日本の国力に比べて非常に重い負担であったことは間違いない。
 これを賄うため、政府は所得税を増税し、タバコ、塩などを専売制にした。また、地租の大増税を行なった。
 しかし、それだけではとても十分ではない。日本には、とにかく資金がないのだ。
 しかも、戦艦は国内で生産できず、外国に発注せざるをえない。砲弾の消費も、大阪砲兵工の製造能力をはるかに超えたので、外国から買わなければならなかった。戦費の3分の1は海外に流出したと言われる。
 だから、海外からの資金調達が、どうしても必要だった。富田によれば、結果的には、戦費の約4割、合計約7億円が外債で調達された。
 しかし、そこに辿りつくまではいばらの道だった。開戦直前、日銀の保有金は、わずか1億円しかなかった。この7倍を外国から借りる必要があったのだ。
 その一方で、日本が外債を発行できる条件は、きわめて厳しかった。日本の国力は低いと見られていたからだ。富田によると、日露間の緊張が高まった1903年末から、ロンドンでのポンド建て日本国債の利回りは著しく上昇していた。
 こうした状況の中で、外債発行のため、当時の日本銀行副総裁高橋是清がヨーロッパを駆け回った。司馬遼太郎は、『坂の上の雲』(文藝春秋)で、「これほど滑稽な忙しさで戦争をした国はない」と言っている。
 司馬の表現では、「高橋の生い立ちは、尋常ではない」。
 高橋は、安政元(1854)年に江戸芝中門前町に私生児として生まれた。父母について、本人は成人するまで知らなかった。実父は幕府の御同朋頭支配絵師である川村庄右衛門。母親のきんは芝白金の魚屋の娘で、行儀見習いのために川村家へ奉公していた。
 生まれるとすぐに、仙台藩の江戸屋敷の足軽高橋覚治の家に養子に出された。
 14歳の時に藩の留学生として渡米。間違って奴隷の契約書にサインをしてしまい、カリフォルニア州オークランドの家庭で奴隷として働くことを余儀なくされたが、働きながら奴隷契約を解除し、アメリカを流浪した後、帰国の途についた。
 帰国後、共立学校で教えるようになった。『坂の上の雲』によれば、正岡子規や秋山真之(『坂の上の雲』の主人公。バルチック艦隊を撃破した海軍参謀)が当時ここで勉強しており、授業に出ていた子規が「だるまさんのようだ」と言ったことから、これが高橋の生涯のあだ名になった。
 日銀総裁・川田小一郎に見込まれ、1895(明治28)年に横浜正金銀行に入行。取締役から副頭取になり、1899(明治32)年には日本銀行副総裁になった。
 高橋は1000万ポンドの戦費を調達せよ、との密命を日本政府から受けた。当時のレートで言えば、これは約1億円である。
 壮行会で、元老の井上馨がスピーチをした。「戦費がととのわなければ、日本はどうなるか。高橋がそれをし遂げてくれなければ、日本はつぶれる」と言ったまま、せきあげてくる涙で言葉が出ず、満場かたずをのんで異様な光景になったという。
 1903(明治36)年2月に出航してニューヨークに向かい、何人かの銀行家に会って事情を説明した。しかし、とても無理との回答。当時のアメリカは、自国産業発展のために外資を導入しており、日本のために外債を募集する余裕はなかったのだ。
 そこで高橋はアメリカに見切りをつけ、ヨーロッパに向かった。フランスは金融力はあったが、ロシアとの同盟でロシアに金を貸しており、日本には冷たかった。ドイツ系の銀行団も慎重であった。
 そこで、高橋はイギリスに向かい、正金銀行の取引先であるバース銀行、香港上海銀行、チャータード銀行などと交渉した。しかし、彼らは日本に同情したものの、金を貸す相手ではないとみていた。
 日露が開戦した場合、ロシア優勢を予想する向きが大勢だった。日本が勝つなどとは信じられていなかったのだ。
 はたせるかな、1904(明治37)年2月の開戦とともに、日本の既発外債の価格は暴落。富田によれば、日本国債の利回りは、3月には、6・51%にもなった。イギリスコンソル国債が2・8%だから、著しく高い。
 計画されていた1000万ポンドの外債発行には、まったく引き受け手が現れなかった。世界中の投資家は、日本が敗れて資金が回収できなくなるだろうと判断していたのである。
 他方で、ロシアの信用は開戦でいささかもゆるがず、国債の価格は値上がり気味だった。
 しかし、高橋は条件闘争を粘り強く続け、なんとかロンドンでの500万ポンドの外債を発行するめどをつけた。しかし、利率は6%、しかも日本の関税収入を抵当とするという、植民地的な条件のものだった。

◇ユダヤ人シフの助けで1000万ポンドの外債発行
 1904(明治37)年の5月。日露戦争は始まったばかりで、日本軍がまだ大きな勝利を収めていないときのこと。高橋は、ある銀行家の晩餐会に招かれた。
 隣に座ったアメリカ人が、話しかけてきた。「日本兵の士気は高いか?」「日本軍の装備はどうか?」等々。
 高橋は、その一つ一つに丁寧に答えた。
 翌朝、イギリスの銀行家が突然、高橋をホテルに訪ねてきて言った。
「昨夜の晩餐会であなたの隣に座ったのは、アメリカの銀行家ヤコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人。彼は、500万ポンドの日本の国債を引き受けようと言っている」
 高橋は驚いた。そして、なぜ彼が日本のために力を貸してくれるのか、最初はよく分からなかった。
『坂の上の雲』によれば、シフは、「ロシアは、ユダヤ人を迫害している」と高橋に語ったという。
 彼によれば、「ロシア国内には600万人のユダヤ人がいるが、ロシア帝政の歴史はユダヤ人虐殺史であり、それは今でも続いている」。
「ユダヤ人は、ロシア帝政がなくなることをつねに祈っている。もしこの戦争で日本がロシアに勝ってくれれば、ロシアに革命が起こる。革命は帝政を葬るだろう。私はそれを願うがゆえに、あるいは利に合わぬかもしれないが、日本を援助する」
「ロシア帝国に対して立ち上がった日本は、ロシアを罰する〝神の杖〟だ」
 シフはアメリカのユダヤ人会の会長であり、クーン・ローブ商会の上席パートナーであった。交渉はトントン拍子に進み、結局、アメリカとイギリスで合計1000万ポンドの外債を発行できることになった。応募状況がロンドンで募集額の約26倍、ニューヨークで3倍という、大成功の発行となった。
 日露戦争の戦費調達は、ユダヤ人の助けで実現できたのだ。
 私には、この話は、とてもよく分かる。
 それは、私の恩師が、同じような話を私に聞かせてくれたからだ。
 彼の名は、ヤコブ・マルシャック。1898年ロシア帝国キエフの生まれ。1943年シカゴ大学教授となり、コウルズ委員会(数理経済学、計量経済学の研究機関。ノーベル経済学賞受賞者を多数輩出した)の所長に就任。1955年に同委員会がイェール大学へ移転したのに伴って自らも移籍。1960年にはUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授に就任した。数理経済学、計量経済学を確立した経済学者の1人だ。弟子には、ケネス・アローなどキラ星のような人が何人もいる。イェール大学での私の指導教官ハーバート・スカーフも、彼の弟子だ。
 私がUCLAの修士課程に留学したのは1968年のことだった。マルシャックの講義では、毎回宿題が出た。答案を見て、彼は私を高く評価してくれた。何度かお宅に呼ばれたことがあるが、あるとき、「オオヤマを知っているか?」と尋ねられた。
 大山巌のことを言っているのだとすぐには分からなかったほど唐突な問だったが、彼もシフと同じように、「日露戦争がロシア帝政を倒した」と考えていたのだ。私が日本人であることに親近感を抱いてくれたのだろう。
 いまでも残念なのは、そのとき私はシフの話を知らなかったことだ。知っていれば、「日露戦争の勝利は、あなた方ユダヤ人のお蔭」と言えたのだが……。
 その後もマルシャックは、ロシア白軍との戦いなど、ロシア革命の話を何度かしてくれた。「マルコフ連鎖」の理論が革命前夜のロシアで生まれた話、「ミクロ経済学、マクロ経済学」という言葉をシカゴ大学教授の時に「発明」(彼の表現)し、それを記念してシカゴ大学の総長が夕食会を開いた話……等々と共に。アポロ11号の月面着陸の時には、お宅に呼ばれ、大勢の学者たち(多分、私以外は全員ユダヤ人)とともにテレビの中継を見た。
 彼が亡くなってから後のこと。脱工業化社会論で有名な社会学者のダニエル・ベルが来日し、ある出版社が座談会を企画してくれた。彼もユダヤ人なので、「私の先生はマルシャックだ」と言ったら、「お前、知らなかったのか。彼は、革命直後にグルジア(現ジョージア)で成立したメンシェビキ政権の副首相だったのだぞ」と聞かされた。マルシャックの人生が波乱万丈だったことは知っていたが、革命政権の副首相とは! これは、その時に、初めて知ったことだった。
 もうひとつ、彼が亡くなってから、ある人(日本人)から聞かされた話。マルシャックは、“Noguchi is one of my best students”と言ってくれたそうだ(彼は、私のことをYukioでなく、Noguchiと呼んでいた)。これは、私の最高の自慢話である。

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一人の伝道師(エバンジェリスト)として、noteを使って何ができるかに挑戦します。