図書館ー2

ペロー、『眠れる森の美女』

◇古典バレエの傑作「眠れる森の美女」の原作
 チャイコフスキイが作曲しプティパが振り付けをしたバレエ「眠れる森の美女」は、古典バレエの最高傑作の一つで、大変有名です。
 この原作が、フランスの童話作家シャルル・ペローの童話『眠れる森の美女』(Charles Perrault, La Belle au Bois Dormant)であることもよく知られています。

 この童話のクライマックス、王女が百年の眠りから覚めたとき、王子に向かって言った言葉を、ペローは、つぎのように紹介しています。
  Est-ce vous, mon Prince ? lui dit-elle,
  vous vous êtes bien fait attendre.

 「あなたでしたの?王子様」と彼女は言いました。
 「ずいぶんお持ちしましたわ」

 これ以上に的確な言い方はなかったと思われるのですが、ペローが示唆するところによれば、王女は百年の眠りの間中ずっと、「王子に会ったときに何と言おうか」と考えていたのだそうです。そのため、目覚めてすぐに、このように適切な言葉を述べることができたのです。
 バレエにはセリフがないので、この言葉を聞くことができず、残念です。

◇こんなに恐ろしい話が童話?
 バレエでは、「王女が目を覚まして、めでたしめでたし」ということになっているのですが、ペローの童話では、こういう結末にはなっていません。話は、目覚めたところで終わらず、その後も続くのです。
 「実は、王子の母親である女王は人食い女であり、王女と子供たち(つまり女王の孫)があやうく食べられそうになった」というのが後半なのです!
 チャイコフスキイは、 さすがにこの部分はバレエに取り入れませんでした。取り入れたら、とんでもないバレエになったことでしょう。
 なにしろ、最後は、「人食い女王を釜ゆでにしました」というのですから!
 しかし、「こんな恐ろしい話を子供たちに聞かせていいのか?」と率直な疑問を抱かざるをえません。
 
 それに、よくよく考えてみると、この人食い女は王子の実の母親ですから、王子には人食い族の血が流れていることになります。
 童話を読む限り、彼にはその気はありません。実に幸いなことです。
 しかし、隔世遺伝と言うこともあるので、「子供たちに顕在化する」という可能性は否定できません。すると、『続・眠れる森の美女』を書くとなれば、「子供たちが、母親(つまり眠れる美女)を食べてしまいました」という耳を塞ぎたくなるような内容になったりしないでしょうか?

 これに対して、前半が同じ内容であるグリム童話の『いばら姫』には、人食い女は登場せず、「2人は死ぬまで幸せに暮らしました」と終っています。
 『赤ずきん』でも、ペロー版は「悪い狼は、赤ずきんに飛びかかっ食べてしまいました」という救いのない終りになっているのに対して、グリムでは「猟師が狼の腹の中から赤ずきんとおばあさんを 助け出しました」となっており、これもハッピーエンドです。 
 これらで見る限り、ドイツ人よりフランス人のほうが残酷度が高いように思えるのですが、どうでしょうか?

 ペローの『眠れる森の美女』が子供向けの話でないと考える現由は、以上で述べたこと以外にもあります。
 第1に、余計な想像をかきたてるような記述があること。ませた子供ならいろいろと想像する可能性があり、子供向けには、「有害図書」に指定すべきです。
 第2に、童話は最後に「教訓」というものを述べることになっているのですが、この童話では、「女性に向かってこの教えを説く、力も勇気もわたしは持ち合わせていない」と、投げやりです。
 話があまりに妙なので、ペローも匙を投げたのでしょう(ペローは、民間に伝承されている話を収集しただけであり、創作したわけではありません)。彼は別のところで、「教訓こそはあらゆる寓話の根本」と言っていますが、それとは矛盾して います。

 ところで、主役である「美女」は、バレエでは「オーロラ」(あけぼの姫)という名になっています。バレエがあまりに有名なので、原作の主役もオーロラという名だと思っている人が多いのですが、原作の主役は名無しです。「オーロラ」というのは、彼女の娘の名なのです。

◇眠っているのは森か美女か?
 バレエのロシア語タイトルは、Спящая красавицаであり、これは英語のThe Sleeping Beautyと同じです。つまり、眠っているのは美女です。

 日本語の「眠れる森の美女」は、2通りに解釈できます。「<眠れる森>の美女」と解釈すれば眠っているのは森であるし、「眠れる<森の美女>」と解釈すれば眠っているのは美女になります。
 「修飾語は被修飾語にできるだけ近く」という原則を適用すれば前者ですが、このルールはさほど厳格なものではないので、後者を排除できません。

 では、おおもとのペローの童話のタイトルLa Belle au Bois Dormantはどうでしょう? dormant (眠れる)は形容詞の男性形ですが、Bois (森)は男性名詞で、Belle(美女)は女性名詞ですから、眠っているのは森ということになります。

 ところが、dormantをdormir(眠る)という動詞の現在分詞と解釈することもできます。そうだとすると、性の一致は必要ないので、Belleにかかっている可能性を排除できません。「論理的に明晰で、曖昧さが入る余地がない」と言われるフランス語ですが、この場合には、日本語と同じ曖昧さを抱えていることになります。
 なお、ペローの童話の英語訳は、The Sleeping Beauty in the Woodです。つまり、眠っているのは美女です。

 以上は文法的・形式的な解釈ですが、意味合いからすると、どうでしょうか?
 眠っているのが美女だとすると、「<森の美女>がいて、彼女が眠っている」ということになります。しかし、「森の美女」では、野蛮な美女、またはオランウータンのようなイメージになってしまいます。これはいかがなものでしょう?

 フランス語でも、dormantが美女にかかるとすると、La Belle au Boisが「森の美女」なので、同じです。

 それに対して、眠っているのが森であるとする解釈では、「眠れる森があり、そこに美女がいる」ということになります。「眠れる森」というのは、虎や蛇がいる森ではなく、ロマンチックな森です。 ですから、美女と相性がよい。
 私はこの解釈をとりたいと思います。なお、グリム童話のタイトルはDornroschen (いばら姫)であり、「眠る」が消えてしまっているので、この問題を考える参考になりません。

◇日本語はフォルダ方式に縛られる? 
 文書や資料、あるいは概念を分類するのに、「ラベル方式」と「フォルダ方式」があります。
 「ラベル方式」では、文書にラベルを書き込んでおきます。これは、区別するためのキーワードです。探し出すときには、これを検索語として検索します。gメールのメールには、このようなラベルを付けておくことができます。
 これに対して、「フォルダ方式」では、最初に大分類のフォルダを作り、各項目をサブフォルダに分割していきます。個々の文書は、いずれかのフォルダに格納します。これは、図書館で通常行われている書籍の分類法です。

 さて、「眠れる森の美女」は、「眠れる」と「森の」という2つの属性を持っています。これらは同等の属性ですから、ラベル方式では2つのラベルを貼っておくだけでよいことになります。これらの間に前後関係はありません。

 ところがフォルダ方式だと、最初にどちらのフォルダを作るかで、異なる印象となります。
 最初に「森の美女」というフォルダを作り、サブフォルダを「眠っている」と「起きている」にすると、最初のフォルダが野蛮な感じを与えるのです。最初のフォルダを「眠れる美女」とし、それを「森の」と「それ以外」に分ければ、野蛮な感じにはなりません。

 日常言語で表現する場合にも、同じ問題が生じます。つまり、どちらの属性を先に規定するかで、印象が異なってしまうのです。先に述べたのはこのことです。野蛮な感じを与えないためには、最初に「眠れる」と指定し、つぎに「森の」とすればよいのです。
 英語のThe Sleeping Beauty in the Woodが野蛮な感じを与えないのは、そのためです。フランス語でも、La Belle Dormante au Bois とすればよいと思われるのですが、なぜそうしないのか。私のフランス語の知識では分りません。

 ところで、日本語では、被修飾語を後ろから修飾することがきないので、このような表現ができません。「眠れる美女一森にいる」という類の表現法は、存在しないのです。せいぜい、「眠れる」を「美女」の近くに置いて、「森の眠れる美女 」とするしかないと思われますが、これも不自然な表現です。こう考えると、日本語は表現可能性において、英語やフランス語に劣るのではないか?という気がしてきます。

◇バレエ「眠れる森の美女」
 ところで、絢爛豪華なバレエ「眠れる森の美女」は、古典バレエの最高傑作の1つであり、多くの名バレリーナが主役のオーロラ姫に挑戦しました。
 一般には、かつてキーロフ・バレエに君臨したイリーナ·コルパコワが最高のオーロラだと言われていました。しかし、DVDで見る彼女はすでに50歳に近く、物語で16歳と明示されているオーロラの年齢との差は、いかんともなし難く思われます。それに、「筋金入りの共産党員」という彼女の経歴は、どうしてもオーロラのイメージとあいません。
 1964年、冷戦さなかのソ連は、国威をかけて映画「眠れる森の美女」を製作しました。 そこでオーロラを演じたのは、当時25歳のキーロフの新星、アーラ·シゾーワです。美女の条件は、場合によって異なる印象を与えること(美女に見えない時もあること)である、と私は考えているのですが、彼女はこの条件を満たしています。それゆえ、彼女のオーロラを超えるオーロラは、いまだに現れていません。

 ところで、このバレエでは、「リラ(ライラック)の精」が準主役です。これまで、キーロフ・バレエのカナダ公演のDVDでユリア・マハリナが印象的で、彼女を超えるリラの精は現れないだろうと思っていました。
 ところが、マリインスキーの新作DVD「眠りの森の美女」で、クリスティーナ・シャプランという素晴らしい新星がこの役を踊っているのを発見。シャプランはマハリナに匹敵します。

 とりわけ、プロローグで、4人の妖精たちのソロが終わってリラの精が登場する場面。 この場面は、王女の誕生を妖精が祝う場面ですから、単に楽しく踊っていればよいように思えるのですが、シャプランは、何とも言えない不思議な雰囲気をかもし出しています。
 DVDでは舞台と違って表情がよく分かります。笑顔ではあるのですが、決して平板な笑顔ではなく、悲しいようにも見えるし、何かを話したいようにも見えます。
 第2幕幻想の場。リラの精は引き立て役であり、観客の注意はオーロラ姫に集中し、普通はリラの精など忘れてしまいます。しかし、このDVDでは、シャプランの魅力がありすぎ。
 デジレ王子とオーロラ姫は会話を交わしているようには少しも見えないのに、王子とリラの精は沢山のことを話しあっているように見えます。船に乗ってオーロラ姫の城に着き、王子は姫を百年の眠りから覚ましにいくのですが、リラの精と別れがたい。
 彼は、オーロラ姫ではなく、リラの精に心を奪われてしまったのではないでしょうか?何度見ても、気になります。
 シャプランは、主役のアリーナ・ソーモアを「食って」しまったのです。
 ソーモアは、これまで何度か主役を「食って」きました。「ドンキホーテ」では、森の女王を演じて、主役のノービコヴァを完全に食ってしまったことがあります。
 「白鳥の湖」では4羽の大きな白鳥で現れて、私の印象ではロパートキナを食った。この頃のソーモアは初々しく、たいへん魅力的でした。それに引きかえ、このDVDのソーモアの、硬直的で魅力に乏しいこと。
 シャプランは、ワガノワ2011年の卒業ですが、すでにマリンスキイのファースト・ソリストになっています。マリインスキーのプリンシパルというのはとてつもなく難しいポジションのようで、なって当然と思われる人がなっていないのですが、彼女の場合は時間の問題ではないでしょうか?
 最後に一言。このDVDで、カラボスを演じているのが、何とイーゴリ・コールプ。これまで、カラボスなんてのはどうでもよい役だと思っていましたが、コールプのすごい存在感のお蔭で、プロローグの位置づけがずっと上がりました。



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