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マッドマン・セオリー(狂人理論)


これは410回目。人間の評価というものは、ほんとうに定まらないもので、同時代の評価ほど当てにならないものはありません。

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トランプ大統領が私淑している人物に、レーガン大統領がいるということは知られているが、実はニクソン大統領もそうらしい。

ニクソン大統領というと、最初の大統領選挙出馬では、若々しいケネディに敗れたものの、その後大統領となった。そして、ケネディが始めた泥沼のベトナム戦争に終止符を打つという、大英断を下した、アメリカにとっては救世主のような偉業を残した人物だ。

残念ながらその末期は、ウォーターゲート事件で醜悪な幕引きとなったが、偉大な大統領であったことは間違いない。歴代大統領の中で、もっとも不人気な人物の一人だが、その評価はわたしは間違っていると思う。

このニクソンは、「マッドマン・セオリー」論者だったことで知られる。平たく言えば、ハッタリである。

思えば、その後、世界はどうも綺麗ごとのお題目がのさばりすぎたのだ。賢くなりすぎたといってもいいかもしれない。オバマ前大統領を見るがよい。民族差別をなくす、移民を受け入れる、戦争をしない、そのために防衛費を削減する。緊張緩和に努める。オバマケアを実施して国民の福祉を向上させる。TPPに加盟する。

すべて正論であり、正しい。が、よく言えば、その主張の背後にある動機はなにかと問えば、おそらくほとんど無い。よく言えば、米国の良心であり、悪くいえばすべて建前にすぎない、ということだ。それによって生まれる矛盾や問題は、建前の正しさだけで押し切られてしまい、なんの対処もなされないのだ。

リベラルというのは、得てしてこういうものである。本音という動機が希薄なのだ。正論だけで世の中を通そうとするから、どんどん現実との間に軋轢が生じてくる。

米国民が、なんだかんだといってトランプ氏を大統領に選んだのは、その本音という動機が爆発してきているからだ。イスラム系排除の大統領令に対し、リベラルを自任する多くの米国人が反対運動を行っている。しかし、世論調査ではそれを上回る政策支持率だということが、それを如実に物語っている。

正論と綺麗ごとで、本音に差し迫った強い動機のないリベラルと、怨念に近い強い動機を持った本音と、正面衝突が始まっているわけだ。

この怨念に近い強い動機という本音を、得票に結びつけるためにトランプ氏が駆使してきたのが、「マッドマン・セオリー(狂人理論)」である。ある意味、先述の通り強面(こわもて)の「はったり」だ。

よく見てみるがいい。ロシアのプーチン大統領もしかり、中国の習近平主席もしかり、またもしかしたら仏蘭西で急速に台頭してきている最右翼主義者のルペン女史もしかり。ドイツですら、右翼の台頭が著しい。国際政治では、この「マッドマン・セオリー」を地で行く指導者が続々と登場してきている。ドイツのメルケル首相などは、次第に孤立するリベラリストと化しているではないか。

彼らが、けして文字通りの「狂人」なのではないことは言うまでもない。逆である。リベラリストたちよりも、はるかにリアリスティックである。利益のためには、国是もそれまでの常識も容易に捨て去ってしまう現実主義を持っている。それこそが「マッドマン・セオリー」である。

現在日本の安倍首相も、それを目指しているかどうかは別として、傾向としては同じ流れの中にいるのかもしれない。韓国や中国に媚びず、むしろ突き放しているようにさえ見える。オバマ政権がいくら牽制しても、安倍首相は一顧だにしなかったし、それどころか、オバマ大統領との接見回数の倍も上回るほどロシアのプーチン大統領と接見したのだ。アメリカに対して「あんたじゃ頼りにならない」と行動で示したのと同じである。これを「マッドマン・セオリー」といえるかもしれない。

ここで誤解しやすいのは、今のアメリカの思想の分断を、富裕者と貧者の対立だという切り口である。これもおそらく間違っている。所得格差の拡大や社会の階層化が問題だというのだが、それがトランプ大統領を生み出したわけではない。

そもそもトランプ大統領こそ、ビリオネアであり、この論点からいえば、怨嗟の標的であるはずだからだ。

不平等というものは、人間の嫉妬心を強める。しかし、圧倒的な差に、嫉妬が生じる余地などないのだ。ビル・ゲイツやジョージ・ソロスに、嫉妬心を抱く人間がはたしてどれほどいるだろうか。いないだろう。イチローや、ベッカムに嫉妬心を抱く人間などいるのだろうか。

かつて、Dヒュームが、こう言った。

「一兵卒は、軍曹や伍長に対するほどには、将軍に対して嫉妬心を抱かない」

むしろ、それは憧れに近いものになる。夏目漱石や芥川龍之介、リルケ、トルストイに憧れを抱くことがあっても、嫉妬心を持たないのと同じだ。

したがって、機会の平等や結果の平等を掲げるとき、こうした人間心理の不思議さを考慮することはとても大事だ。逆説的だが、資本主義のバイブルとなった「諸国民の富」を著したアダム・スミスはこう書き残している。

「社会秩序にとって、社会の階層化や身分の区別が生み出す安定化要因に注目すべきだ。」

なんでも平等、なんでも自由、リベラル派の人たちが世の中の常識であるかのようになってきていた、この21世紀初頭においては、「憧れ」の対象が、そのまとっているヴェールをはぎ取られてしまい、「人間はみんな同じはずなのに」という正論とも綺麗ごととも聞こえる主張のほうが、むしろ人間の醜い嫉妬心を扇動している。

日本でも、銀幕の永遠のスターたちの時代が遠く失われ、今や身近なアイドルが跳梁跋扈する風潮にその醜悪なリベラルさが、よく露呈しているといっていい。身近で、その差が微妙であるほど、人間は醜い嫉妬心を抱きやすく、ともするととんでもない勘違いの事件を巻き起こす。

逆に、ハッタリに見えても「マッドマン・セオリー」を地で行く人たちのほうが、言うことや、やることは強引でも、きわめて現実的な行動原理であるという事実は、とても皮肉なことだ。

世界は、正論や綺麗ごとではなく、やはり本音と実利・実益をぶつけ合う「物言う」時代に突入しているように見える。

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