やまと

幻の艦隊決戦

これは320回目。戦艦大和のお話です。最近の子は、「やまと」と言うと、宇宙戦艦ヤマトが頭に浮かび、先の大戦の大和のことは知らないそうです。

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その日、米海軍第5艦隊司令長官スプルーアンス大将は、少年のように顔を紅潮させていた。緊張の一瞬が訪れようとしていたからだ。

1945年(昭和20年)4月6日午後、大日本帝国に残された戦闘可能な最後の第二艦隊が沖縄に向けて徳山から出撃した。旗艦は世界最強にして最大の戦艦大和である。スプルーアンスはこの情報を握っていた。

同日、沖縄に殺到していた米軍に対し、日本は大規模な神風攻撃「菊水一号作戦」を仕掛けていた。米上陸軍は、日本陸軍の激烈な抵抗戦に遭い、バックナー陸軍中将はじめ、動揺し、怯(ひる)むこと甚だしく、スプルーアンスを心配させた。(バックナー中将は、その後、乱戦の中で日本軍の狙撃兵によって戦死している。バックナー中将は、敵軍の攻撃によって戦死した、最高位の米軍人となった。)

スプルーアンスは、神風攻撃に呼応して、日本は水上部隊を繰り出してくるだろうと予測していた。大和である。その予想が的中したのだ。大和が沖縄上陸中の米艦船に襲い掛かったら、とんでもないことになる。

第二艦隊は豊後水道を通過。翌7日、スプルーアンスは第54任務部隊(戦艦6隻を主力とする艦隊決戦部隊)のデヨ中将を向かわせる。一方で、第二艦隊が航空兵力の援護を得ていると考え、第58任務部隊(空母・航空機動部隊を主体とする米海軍の主力)のミッチャー中将にもスタンバイさせた。(実際には大和は航空兵力を伴っていなかった。わずかな護衛機も途中で引き返している)

アメリカの戦艦部隊(第54任務部隊)は、多くが日本軍の立てこもる島嶼攻撃において、海上からの陸上砲撃をすることがほとんどで、ガチの艦隊決戦は非常に少なかった。そのため、乗艦していた将兵たちは、一様にフラストレーションに苛まれていた。

スプルーアンスにも、一つの夢があった。大和との艦隊決戦である。ようやく、古来の海軍の戦争である、艦隊決戦ができると踏んだのだ。思えば、真珠湾以来、太平洋戦争はそのほとんどが、航空戦主体によるもので、艦隊決戦はなかなか登場する機会が無かったのだ。

スプルーアンスは、かつて1907年から8年にかけて、当時の新鋭戦艦ミネソタに乗艦し、世界巡航をした経験がある。彼が21歳のときだ。1905年に日露戦争が終結しており、1908年10月に最初の寄港地である日本を訪れている。

このときのガーデンパーティで、東郷平八郎に会っている。当時、米海軍将校たちはロシアのバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎に対し、神格化したと言っても良いくらいの畏敬の念を抱いていた。みな、興奮して東郷と会ったときの話を、後日談に残している。

少尉候補生だったスプルーアンスもそうだった。後の上官(太平洋戦争では海軍提督)ニミッツほど、熱烈な敬意ではなかったものの、小柄ながら東郷の颯爽とした姿に、スプルーアンス自身、日本国民に対する敬愛の念を抱いたようである。

大和との艦隊決戦は、今は亡き東郷への返礼でもあった。同時に、出撃してきた第二艦隊司令長官・伊藤整一へのはなむけでもあった。伊藤が少佐のとき、1927年昭和2年、アメリカ駐在武官として米国滞在経験があり、スプルーアンスと深い親交を結んでいたのだ。

その伊藤が出てくるのだ。もはや戦争の帰趨は決しているが、日本は最後の力を振り絞って大和による水上特攻「天一号作戦」を仕掛けてきた。おそらくは、史上最後となるであろう、最強最大の艦隊決戦で、艦隊決戦論者であった伊藤にせめてものはなむけをしたかったのである。

7日午前6時、第二艦隊は大隅半島を通過し、外洋に出、沖縄本島に向かった。艦隊は、大和を中心として、その周囲1500mずつ距離を置いて、8隻以上の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んでいた。
 
米軍はこの大和の動向をレーダーで完全に掌握しており、一方大和のほうも米軍の無線傍受で、いつなんどき攻撃を受けるかもしれないというリスクを認識していた。そのため、大和は偽装航路を取った。
 
大和は、故意に西に一直線に進み、鹿児島県南岸・坊の岬沖を通過、東シナ海へ出た。米軍は、大和が九州・佐世保に回航するのではないか、それともこれは偽装で沖縄に突入するつもりか、判断に迫られた。

第54任務部隊のデヨの戦艦主力艦隊は、大和との決戦に沸き立っていた。第54任務部隊の戦艦は、コロラド(40cm砲8門、21ノット)、メリーランド(コロラドに同じ)、ウエストバージニア(コロラドに同じ)、テネシー(36cm砲12門、21ノット)、ニューメキシコ(テネシーに同じ)そしてアイダホ(テネシーに同じ)といったもので、実は旧式戦艦ばかりで、個々の戦闘力では大和(46cm砲9門、27ノット)に見劣りがする。

大和を上回る速度をもつ戦艦はアメリカのノースカロライナ級(40cm砲9門、28ノット)アイオワ級(40cm砲9門、33ノット)があるが、両クラスとも空母の護衛に当たっており大和迎撃には配備されなかった。第54任務部隊所属戦艦の鈍足さが、このときネックとなった。佐世保に逃げ込まれたら、とても第54任務部隊では、追いつけない。

ところが米戦艦は旧式ぞろいとはいえ、近代化改装が施され、レーダーと連動した射撃システムを備えていた。第3次ソロモン海戦では、アメリカの戦艦ワシントンがレーダー射撃で日本の戦艦霧島を仕留めている。そして数という点については圧倒的優位に立っている。戦艦の主砲は口径はともかく、合計砲門数では、9門対60門で、およそ1対7である。

仮に大和がデヨ少将率いる第54任務部隊が待ち構える海域に現れ、戦闘が行われたとする。アメリカ戦艦部隊は、煙幕を張って姿を隠しながら、レーダー射撃で大和を砲撃する。アメリカ戦艦部隊の主砲は36cmと40cmであり、直接仕留めることはできないが、徐々に大和の戦闘力を低下させていく。そして戦闘不能となった大和に巡洋艦や駆逐艦が魚雷を浴びせて仕留めると、いった展開になるはずだった。

いずれにしても大和が沖縄までたどりつくことはできないだろうが、果たして大和は第54任務部隊に対して一矢を報うことができるのだろうか。大和の46cm砲の砲弾は、1発で米戦艦を仕留める可能性があり、当時の連合艦隊将兵の練度の高さから言えば、1、2隻の戦艦を仕留めることは可能ではなかったか、という見方もある。

しかし、伊藤の採った偽装航路が、皮肉にも米軍に艦隊決戦を放棄させる結果となった。この機を逃しては、沖縄占領後の日本本土への上陸作戦において、大和級の最後の虎の子が立ちはだかり、米軍に甚大な被害が出る恐れがある。なんとしても、ここで大和を撃沈しておかなければならないという、戦術上の需要がアメリカにはあった。

第58任務部隊(空母・機動部隊)のミッチャーは、スプルーアンスに連絡を取った。すでに大和の位置は捕捉している。「われわれが航空機動部隊で攻撃をするか。それとも、艦隊決戦にこだわるか。」このとき、大和の航路は、第54任務部隊(戦闘艦隊)が迎撃する海域を避ける進路だったからだ。今なら、航空兵力で一気に片をつけられる。それとも、米艦隊を現場に急行させるつもりか、と問いただしてきたのだ。

スプルーアンスは、打電した。

「You take them(おまえがやれ)」

これは、米国海軍史上、最も短い命令だと言われる。このぶっきらぼうな、そして投げやりなスプルーアンスの命令電文に、彼の失望と無念、そして慚愧の念が込められているかのようだ。

7日12時32分から、合計386機の米航空機動部隊が波動的に大和に殺到。ハチの巣となった大和は、14時23分、完全に転覆して大爆発を起こし、沈没。伊藤長官の享年は54。第二艦隊護衛の任務についていた伊藤長官の長男・伊藤叡(あきら)海軍中尉のゼロ戦が、父親の最後を空から見送っている。伊藤叡中尉は、この後28日の沖縄特攻で戦死。享年21歳。

伊藤長官が、この「天一号作戦」に出立する朝、すっかり身辺整理の終わった夫に、妻(ちとせ夫人)は、「負け戦(いくさ)だったら、帰ってきてもおうちに入れませんよ。」と笑って見送ったという。伊藤長官が、その妻女たちに残した遺書には以下のような文言がある。

「・・・親愛なるお前様に、後事を託して、何事の憂いなきは、この上もなき仕合せと、衷心より感謝致候。・・・いとしき最愛のちとせ殿」

こうして、もし起こっていたら世界海戦史上、最大にして最後となったであろう艦隊決戦は、幻のまま伝説と化した。

その後、沖縄戦激化につれて、米軍の被害は想像を超える規模になっていった。旗艦インディアナポリスにはすでに特攻機が命中していたが、臨時旗艦となったニュー・メキシコにも特攻機が命中し、戦死54名、負傷119名を出した。先述通り、陸上部隊でもバックナー中将が戦死し、米軍の日本兵への恐怖は極限に達し、精神が崩壊する将兵が続出していた。ニミッツ元帥は、沖縄方面軍の司令部も、およそ任務遂行の限界に達していると判断し、作戦途中で、スプルーアンスをハルゼー提督に交代させるという非常手段を取った。

スプルーアンスは一時、米国本土に休暇で帰国し、グアムに戻った。8月15日の日本降伏のニュースは、グアムで聞いた。長男エドワードの回想によると、このとき満足気な顔はしたものの、とくに何の感情も示さなかったという。

1966年、椎間板ヘルニア、白内障、これに動脈硬化症を併発。1969年春には、長男エドワードが交通事故死すると、スプルーアンスは精神に異常をきたし、認知症のような状態に陥った。同年12月、自宅で死去。享年83歳。最後に言い残した言葉は、「わたしは、妻にさよならを言いたいのだ」だったそうだ。(妻のマーガレットは、1985年、95歳まで生きた。)

やはり、戦争ではみんな負けるのかも知れない。

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